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2004.12.21

抜け雀(ぬけすずめ)  落語

宿代代わりに描いた雀が……。名工をたたえた不思議な噺です。

小田原宿に現れた若い男。

色白で肥えているが、
風体はというと、黒羽二重は日に焼けて赤羽二重。
紋付も紋の白いところが真っ黒。

袖を引いたのが、夫婦二人だけの小さな旅籠の主人。

男は悠然と
「泊まってやる。内金に百両も預けておこうか」
と、大きなことを言う。

案内すると、
男は、
おれは朝昼晩一升ずつのむ
と、宣言。

その通り、七日の間、
一日中大酒を食らって寝ているだけ。

こうなるとそろそろ、
かみさんが文句を言いだした。

危ないから、ここらで内金を入れてほしいと催促してこい
と、気弱な亭主の尻をたたく。

ところが男
「金はない」

「だってあなた、百両預けようと言った」
と泣きつくと
「そうしたらいい気持ちだろうと」

男の商売は絵師。

「抵当(かた)に絵を描いてやろうか」
と言いだし、新しい衝立に目を止めて
「あれに描いてやろう」

それは、江戸の経師屋の職人が抵当に置いていったもの。

亭主をアゴで使って墨をすらせ、
一気に描き上げた。

「どうだ」
「へえ、何です?」
「おまえの眉の下にピカピカッと光っているのは何だ?」
「目です」
「見えないならくり抜いて銀紙でも張っとけ。
雀が五羽描いてある。一羽一両だ」

これは抵当に置くだけで、
帰りに寄って金を払うまで売ってはならない
と言い置き、男は出発。

とんだ客を泊めたと夫婦でぼやいていると、
二階で雀の鳴き声がする。

はて変だとヒョイと見ると、
例の衝立(ついたて)が真っ白。

どこからか雀が現れ、
何と絵の中に飛び込んだ。

これが宿場中の評判を呼び、
見物人がひっきりなし。

ある日、
六十すぎの品のいい老人が泊まり、
絵を見ると
「描いたのは二十五、六の小太りの男であろう。
この雀はな、死ぬぞ」

亭主が驚いてわけを聞くと、
止まり木が描いていないから、自然に疲れて落ちる
という。

書き足してやろう
と硯を持ってこさせ、さっと描いた。

「あれは、何です?」
「おまえの眉の下にピカピカッと光っているのは何だ?」
「目です」
「見えないならくり抜いて、銀紙でも張っとけ。これは鳥かごだ」

なるほど、雀が飛んでくると、
鳥かごに入り、止まり木にとまった。

老人、
「世話になったな」
と行ってしまう。

それからますます絵の評判が高くなり、
とうとう藩主・大久保加賀守まで現れて感嘆し、
この絵を二千両で買うとの仰せ。

亭主は腰を抜かしたが、
律儀に、絵師が帰ってくるまで待ってくれ
と売らない。

それからしばらくして、
仙台平の袴に黒羽二重という立派な身なりの侍が
「あー、許せ。一晩やっかいになるぞ」

見ると、あの時の絵師だから、
亭主は慌てて下にも置かずにごちそう攻め。

老人が鳥かごを描いていった次第を話すと、
絵師は二階に上がり、
屏風の前にひれ伏すと
「いつもながらご壮健で。
不幸の段、お許しください」

聞いてみると、
あの老人は絵師の父親。

「へええっ、ご城主さんも、
雀を描いたのも名人だが、
鳥かごを描いたのも名人だと言ってましたが、
親子二代で名人てえなあ、めでたい」
「何が、めでたい。あー、おれは親不孝をした」
「どうして?」
「衝立を見ろ。親をかごかきにした」

【うんちく】

知恩院抜け雀伝説

この「抜け雀」という噺、
どうも出自がはっきりしません。

講釈ダネだという説もあり、はたまた中国の
黄鶴楼伝説が元だと主張なさる先生もあり、
誰それの有名な絵師の逸話じゃとの説もありで、
百家争鳴、どの解説文を見てもまちまちです。

その中で、ネタ元として多分確かだろうと
思われるのが、京都・知恩院七不思議の一で、
襖絵から朝、雀が抜け出し、餌をついばむと
いう伝説です。

六代目三遊亭円生の「子別れ・上」の中で熊五郎
が、「知恩院の雀ァ抜け雀」と、俗謡めいて言って
いますから、結構有名だったのでしょう。

襖絵のある知恩院の大方丈は寛永18年(1641)の
創建ですから、描いたのは恐らく京都狩野派の
中興の祖・狩野山雪でしょうが、不詳です。

志ん生・父子相伝 1

落語として発達したのは上方で、したがって、
大阪では後述のように昔から、結構多くの師匠が
手掛けていますが、東京では五代目志ん生の、
文字通りワンマンショーです。

何しろ、明治以後、志ん生以前の速記、音源は
事実上ありません。わずかに「明治末期から
大正初期の『文芸倶楽部』に速記がある」という
アイマイモコ、いい加減極まりない記述を
複数の「落語評論家」の先生方がしていますが、
明治何年何月号で、何という師匠のものなのかは、
ダレも知らないようです。つまり、大阪から
いつごろ伝わり、志ん生がいつ、誰から教わった
のか、ご当人も忘れたのか言い残していない以上、
永遠の謎なのです。

要は志ん生が発掘し、育て、得意の芸道ものの
一つとして一手専売にした、「志ん生作」と
いっていいほどの噺ですから、他門の落語家は
ちょっと手を出せません。

志ん生・父子相伝 2

当然ながら、速記、音源とも、志ん生がほとんど
総ざらいで、東京の噺家では子息の十代目
金原亭馬生、古今亭志ん朝兄弟が「家の芸」
として手掛けたくらいです。まさに親子相伝。

志ん生の「抜け雀」の特色は、芸道ものによくある
説教臭がなく、「顔の真ん中にぴかっと」という
セリフが、絵師、神さん、老人と三度繰り返される
「反復ギャグ」を始め、笑いの多い、明るく楽しい
噺に仕上げていることでしょう。
特に「火焔太鼓」を思わせる、ガラガラの神さんと
恐妻家の亭主の人物造形が絶妙です。

故・志ん朝は、「志ん朝の落語・6」(ちくま
文庫)解説で京須偕充氏も述べている通り、
父親の演出を踏まえながら、より人物描写の
彫りを深くし、さらに近代的で爽やかな印象の
「抜け雀」をつくっています。ぜひCDで
聞き比べてみてください。

「本場」大阪の「雀旅籠」

大阪の「雀旅籠」は、舞台も同じ小田原宿と
いうことも含め、筋や設定は東京の「抜け雀」と
ほとんど違いはありません。

特に桂文枝代々の持ちネタで、近代では三代目
桂文枝のほか、二代目立花家花橘、二代目
桂三木助も得意にしていたといいます。

現五代目文枝、現米朝ももちろん手掛けますが、
特に米朝のは、先代文枝譲りで、

「私が教わったのでは、雀は室内を飛びまわる
だけで、障子を開けるとバタバタと絵へ納って
しまうのですが、私は東京式に一ぺん戸外へ
飛び出すことにしました」

と芸談にある通り、ギャグも含めて、東京、
つまり志ん生の影響が多分にあるようです。
同師は題も「抜け雀」で演じます。

「現在親に駕籠かかせ……」

「親を駕籠かきにした」というオチの部分の
原話は、大坂落語の祖・初代米沢彦八(?~
1714)が元禄16年(1703)に刊行した「軽口御前男」
巻二中の「山水の掛物」といわれますが、これは
ある屋敷で客の接待に出た腰元が、床の間の
雪舟の絵の掛け軸を見て涙を流し、

「私の父もかきましたが、山道をかいている
最中に亡くなりました」と言うので、客が
「そなたの父も絵かきか」と尋ねると、

「いえ、駕籠かきです」

と地口(=ダジャレ)オチになるものです。

それから時代がくだり、寛延2年(1749)7月、
大坂・竹本座で初演された人形浄瑠璃「双蝶蝶
曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」
六段目の「橋本・治部右衛門住家」に、傾城
吾妻のくどき「現在親に駕籠かかせ」という
セリフがあることから、これが直接のオチの
原型であると同時に、この噺の発想そのものに
なったという説があります。

ほんま、ややっこしいことで。お退屈さま。

駕籠かき

普通、街道筋にたむろする雲助、つまり
宿場や立て場で客待ちをする駕籠屋のことです。

「親に駕籠を担がせた」と相当に悪く言われ、
職業的差別を受けていることで、この連中が
どれだけ剣呑で、評判のよくない輩だったかが
知れます。

そういえば、二昔ほど前、タクシー運転手を
駕籠かき呼ばわりして、物議をかもした
漫才師はんがいはりましたな。

おすすめCD抜け雀

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