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2005.08.10

浜野矩随(はまののりゆき)/落語

職人の一途な噺。ものつくりの喜びと哀しみが出ています。

浜野矩随のおやじ矩安(のりやす)は、
刀剣の付属用品を彫刻する「腰元彫り」の名人だった。

おやじの死後、
矩随も腰元彫りを生業としているが、てんでへたくそ。

芝神明前の袋物屋・若狭屋新兵衛が
いつもお義理に二朱で買い取ってくれているだけだ。

八丁堀の裏長屋での母子暮らしも
次第に苦しくなってきたあるとき、
矩随が小柄に猪を彫って持っていった。

新兵衛は「こいつは豚だ」と言い、
「どうして、こうまずいんだ。
今まで買っていたのは、おまえがおっかさんに優しくする、
その孝行の二字を買ってたんだ」
となじり、
挙げ句の果ては「死んじまえ」と。

帰った矩随は、
母親に「あの世に行って、おとっつぁんにわびとうございます」と
首をくくろうとする。

「先立つ前に、形見にあたしの信仰している観音さまを
丸彫り五寸のお身丈で彫っておくれ」
と母。

水垢離(みずごり)の後、
七日七晩のまず食わず、裏の細工場で励む矩随。

観音経をあげる母。

やがて、完成の朝。

母は「若狭屋のだんなに見ておもらい。
値段を聞かれたら『五十両、一文かけても売れません』と言いなさい」
と告げ、
矩随に碗の水を半分のませ、残りは自らのんで見送った。

観音像を見た新兵衛、
おやじ矩安の作品がまだあったものと勘違いして大喜びしたが、
足の裏を見て「なんだっておみ足の裏に『矩随』なんて刻んだんだ。
せっかく五十両のものが、二朱になっちゃうじゃねえか」

矩随が母への形見に自分が彫った顛末(てんまつ)を語ると、
新兵衛「えっ、水を半分? 
おっかさんはことによったら
おまえさんの代わりに梁(はり)にぶらさがっちゃいねえか」

矩随は慌てて駕籠(かご)でわが家に戻ったが、
母はすでにこときれていた。

これを機会に矩随は開眼、名工としての道を歩む。

【うんちく】

浜野矩随って?

三代続いた江戸後期の彫金の名工です。

初代(1736~87)、二代(1771~1851)が有名ですが、
この噺のモデルは初代でしょう。

初代は本名を忠五郎といい、初代浜野政随(しょうずい)に師事して
浜野派彫金の二代目を継ぎました。
細密・精巧な作風で知られ、生涯神田に住みました。

志ん生得意の出世譚

講釈(講談)を元に作られた噺です。

明治期には初代三遊亭円右の十八番でした。

円右は四代目橘家円喬と並び称されたほどの
人情噺の大家で、若き日の五代目古今亭志ん生が
この円右のものを聞き覚え、
講釈師時代の素養も加えて、戦後十八番の一つとしました。

元に戻った結末

講談では、最後に母親が死ぬことになっていますが、
落語ではハッピーエンドとし、蘇生させるのが普通でした。

ところが、五代目志ん生がこれをオリジナル通り
死なせるやり方に変え、以後これが定着しています。

現在、この噺を得意にしている三遊亭円楽も
やはり母親が自害するやり方です。

言うまでもなく、老母の死があってこそ
矩随の悲壮な奮起が説得力を持つわけで、
こちらの方が正当ですぐれた行き方でしょう。

現在、音源は志ん生、円楽ともにありますが、
志ん生のものは「名工矩随」の題になっています。

袋物屋

恩人・若狭屋の稼業ですが、
紙入れ、たばこ入れなどの袋状の品物を製造・販売します。

ちなみに、戦後劇壇のボスとして君臨した
久保田万太郎(劇作家・小説家、1889~1963)の父親が
浅草・田原町の袋物職人でした。

水垢離

神仏に祈願するため、冷水を浴びて
心身を清浄にするならわしです。

富士登山、大山まいりなどの前にも水垢離をとり、
安全を祈願するしきたりでした。

東両国の大川端が、江戸の垢離場として有名でした。
(→「大山まいり」)

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