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2005.08.22

松山鏡(まつやまかがみ)/落語

                                               松山鏡

おのが姿を、いまだ見たことのない人々のちぐはぐなお話です。

鏡というものを、
誰も見たことのない越後の松山村。

村の正直正助という男、
四十二になるが、両親が死んで十八年間、
ずっと墓参りを欠かしたことがない。

これがお上の目に留まり、
孝心あつい者であるというので、
青ざし五貫文のほうびをちょうだいすることになった。

村役人に付き添われて役所に出頭すると、
地頭が、何かほうびの望みはないかと尋ねるが、
正助は、
自分の親だから当たり前のことをしているだけだし、
着物をもらっても野良仕事にはじゃまになるし、
田地田畑はおとっつぁまからもらったのだけでも手に余る、
と辞退する。

金は、あれば遊んでしまうので毒だから
と、どうしても受け取らない。

困った地頭が
「どんな無理難題でもご領主さまのご威光でかなえてとらすので、何なりと申せ」
と、しいて尋ねると、
正助、
それならば、おとっつぁまが死んで十八年になるが、
夢でもいいから一度顔を見たいと思っているので、
どうかおとっつぁまに一目会わしてほしい
と、言いだす。

これには弱ったが、
今さらならんと言うわけにはいかないので、
地頭は名主の権右衛門に
「正助の父は何歳で世を去った」
と、尋ねる。

行年四十五で、しかも顔はせがれに瓜二つと確かめると、
さっと目配せして、鏡を一つ持ってこさせた。

この鏡は三種の神器の一つ、
八咫鏡(やたのかがみ)のお写し(複製)で、国の宝。

この中を見よ
と言われ、ひょいとのぞくと、
鏡を知らない正助、映っていた自分の顔を見て、
おやじが映っていると勘違い。
感激して泣きだした。

地頭は
「子は親に似たるものをぞ亡き人の恋しきときは鏡をぞ見よ」
と歌を添えて
「それを取らせる。余人に見せるな」
と下げ渡す。

正直正助、それからというもの、
納屋の古葛籠(つづら)の中に鏡を入れ、女房にも秘密にして、
朝夕
「おとっつぁま、行ってまいります」
「ただ今けえりました」
と、あいさつしている。

女房のお光、これに気づき、
どうもようすがおかしい
と、亭主の留守に葛籠をそっとのぞいて驚いた。

これも鏡を見たことがないから、
映った自分の顔を情婦と勘違い。

嫉妬に狂って泣きだし
「われ、人の亭主ゥ取る面かッ、狸のようなツラしやがって、
このアマ、どこのもんだッ」
と、大騒ぎ。

正助が帰るとむしゃぶりつき
「何をするだッ、この狸アマッ」
「ぶちゃあがったなッ、おっ殺せェ」
と、つかみ合いの夫婦げんかになる。

ちょうど表を通りかかった隣村の尼さんが、
驚いて仲裁に入る。
両方の事情を聞くと尼さん、
ようし、おらがそのアマっこに会うべえ
と、鏡をのぞくと
「ふふふ、正さん、お光よ、けんかせねえがええよゥ。
おめえらがあんまりえれえけんかしたで、
中の女ァ、決まりが悪いって坊主になった」

【うんちく】

噺のルーツはインド

古代インドの民間説話を集めた仏典「百喩経」巻三十五
「宝篋(ほうきょう)の鏡の喩(たとえ)」が最古の出典といわれます。

中国で笑話化され、清代の笑話集「笑府」誤謬部中の
「看鏡」に類話があります。

朝鮮を経て日本に伝わり、鎌倉初期の仏教説話集「宝物集」ほか、
各地の民話に、鏡を見て驚くという同趣旨の話が採り入れられました。

さらに、これらをもとに謡曲「松山鏡」、狂言「土産の鏡」が作られ、
すべてこの噺の源流となっています。

江戸の小咄では、正徳2年(1712)刊の「笑眉」中の
「仏前の宝鏡」が最初で、これは、鏡を拾おうとした男が
「下から人が見ていた」ので取るのをやめた、
という他愛ないものですが、時代が下って
文政7年(1824)刊の漢文体笑話本「訳準笑話」中の小咄では
現行の落語と、大筋は夫婦げんかも含めて
そっくりになっています。

文楽十八番、志ん生も!

明治29年の二代目三遊亭円橘の速記が残るほか、
明治末から大正にかけては三代目三遊亭円馬が
上方の演出を加味して得意とし、それを直伝で
「黒門町」こと八代目桂文楽が継承しました。
地味ながら、隠れた十八番といっていいでしょう。

文楽とくれば、ライバル五代目古今亭志ん生も負けじと(?)演じ、
両者とも音源を残しています。
志ん生のは、まあどうということもありませんが
夫婦げんかで亭主にかみつくかみさんの歯が
「すっぽんの歯みてえな一枚歯」というのがちょっと笑わせます。

ほかに三代目三遊亭小円朝、志ん生の子息の
十代目馬生も演じました。

上方では「羽生村の鏡」と題し、筋は東京と変わりませんが
舞台を累怪談で有名な下総・羽生村とします。
これは、同村では昔、鏡を見ることがタブーだったという
伝承に基づき、累伝説の一種のパロディをねらったものと思われます。

松山村

現・新潟県東頸城(くびき)郡松之山町。
たまに伊予・松山で演じられることもあります。

江戸後期の有名な地誌、鈴木牧之著の
「北越雪譜」(岩波文庫)にも登場しますが、
なぜこの越後の雪深い寒村が舞台に選ばれたかは不明です。

ただ、重要な原点である謡曲、狂言がともに
同村を舞台にしているので、
そのあたりで何らかの実話があったのかも知れません。

地頭って?

鎌倉時代の地頭と異なり、江戸時代のそれは
諸大名の家臣で、その土地を知行している者の尊称です。

領主の名代で、知行地の裁判や行政を司ります。
つまり天領の代官のようなものでしょう。

なお、村役人は、名主・組頭・百姓代の村方三役をいいます。

孝行の褒美

「青ざし五貫文」は「孝行糖」にも登場しました。

要するに、幕府の朱子学による統治のバックボーンとなった
孝子奨励政策の一環です。

なお、原典の一つである謡曲「松山鏡」では、
亡母を慕って毎日鏡で自分の顔を見て、
母親の面影をしのぶ娘の孝心の威徳により、
地獄に堕とされようとした母の魂が救われて
成仏得脱するという筋なので、
この噺の孝行譚の要素は
ここらあたりからきたのでしょう。

坊主は厳罰

「大山まいり」でも触れましたが、江戸時代、
俗人が剃髪して坊主になるのは、謹慎して人交わりを絶つ証で、
大変なことでした。

男でさえそうですから、女の場合はまして、髪を切るのは
尼僧として仏門に入る以外は、たとえば不義密通の償いなどで
助命する代りに懲罰として坊主にされる場合がほとんどでした。

「髪は女の命」で、ある意味では命を絶つより
むごい見せしめとされたわけです。

これは万国共通とみえ、
フランスなどで戦時中、ナチに協力したり、
ドイツ兵の情婦になっていた女性をリンチで
丸坊主にした例がありました。

近年では、イタリア映画「マレーナ」で
そういうシーンが見られましたね。

落語では「大山まいり」のほか、「坊主の遊び(剃刀)」が
女郎を坊主にする噺です。

落語の田舎言葉

八代目文楽が自伝「あばらかべっそん」でこの噺について
次のように語っています。

「……完全な越後の言葉でしゃべると全国的には
分からなくなってしまいます。ですから、
やはり落語の田舎言葉でやるよりないと思いますネ。
(中略)じつは我々の祖先が今いったようなことを考えて、
うそは百も承知で各国共通の田舎言葉を
こしらえてくれたのだとおもっています」

ちなみに、落語発祥のこの「インチキなまり」は
いちいち方言を調べるのが面倒な小説家にとっても
調法なものらしく、今でもしばしば散見します。

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