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2005.09.20

百川(ももかわ)/落語

                                                                                                             百川

日本橋の老舗を舞台にした、ちぐはぐなおなはし。

日本橋浮世小路にあった名代の料亭「百川(ももかわ)」に、
葭町(よしちょう)の桂庵(けいあん)千束屋(ちづかや)から、
百兵衛という新規の抱え人が送られてきた。

田舎者で実直そうなので、主人は気に入って、
当分洗い方の手伝いを、
と言っているときに二階の座敷から手が鳴る。

折悪しく髪結いが来て、
女中はみな髪を解いてしまっているので座敷に出せない。
困っただんな、百兵衛に、
来たばかりで悪いが、おまえが用を伺ってきてくれ
と、頼む。

二階では、祭りが近づいたというのに、
隣町に返さなくてはいけない四神剣(しじんけん)を質入れして遊んでしまい、
もめている最中。

そこへ突然、羽織を着た得体の知れない男が
「うひぇッ」と奇声を発して上がってきたから一同びっくり。

百兵衛が、
「わしゃ、このシジンケ(主人家)のカケエニン(抱え人)でごぜえます」
と言ったのを、早のみ込みの初五郎が
「シジンケンの掛け合い人」
と聞き違え、
さては隣町からコワモテが催促に来たか
と、大あわて。

ひたすら言い訳を並べ立て、
決して、あぁたさまの顔はつぶさねえつもりですからどうぞご安心を
と、平身低頭。

百兵衛の方は
「こうだなつまんねえ顔だけんどもはァ、つぶさねえように願えてえ」
と「お願いした」つもりが、
初五郎の方は一本釘を刺されたと、ますます恐縮。

機嫌をそこねまいと、酒を勧める。

百兵衛が下戸(げこ)だと断ると、それならと、クワイの金団を差し出し
「ここんところは一つ、ぐっとのみ込んでいただきてえんで」

馬鹿正直な百兵衛、客に逆らってはと、
大きなクワイの塊を脂汗流して丸のみし、
目を白黒させて下りていった。

みんな腹を抱えて笑うのを、初五郎、
なまじな奴が来て聞いた風なことを言えば喧嘩になるから、
某という名ある親分が、わざとドジごしらえで芝居をし、
最後にこっちの立場を心得たのを見せるため、
わざと金団をのみ込んで笑わしたに違いないと、一人感心。

一方百兵衛、喉をひりつかせていると、二階からまた手が鳴ったので、
また何かのまされるかと、いやいや引き返す。

二階の連中驚いたが、
やっと百兵衛がただの抱え人とわかると、
長谷川町三光新道の常磐津歌女文字(かめもじ)という三味線の師匠を
呼んでこいと言いつける。

名前を忘れたら、
三光新道でかの字のつく名高い人だと聞けばわかるから、
百川に今朝から河岸の若い者が
四、五人来ていると伝えろと言われ、出かけた百兵衛。

やっぱり名を忘れ、教えられた通りに尋ねると、
鴨池(かもじ)という医者の家に連れていかれた。

百兵衛が
「魚河岸の若い方が、今朝がけに四、五人来られやして」
と言ったので、鴨池先生、
「袈裟(けさ)がけに斬られた」と誤解。

自分が着くまでに、焼酎と白布、鶏卵二十個を用意するように
と、言いつける。

この伝言を聞いた若い衆、
師匠は大酒のみだから、景気付けに焼酎をのみ、
白布は晒にして腹に巻き、卵をのんでいい声を聞かせようって寸法だ
と、勝手に解釈しているところへ、鴨池先生があたふた駆け込んできた。

「間違えるに事欠いて、医者の先生を呼んできやがって。この抜け作」
「どのくれえ抜けてますか」
「てめえなんざ、みんな抜けてらい」
「そうかね。かめもじ、かもじ、……いやあ、たんとではねえ。たった一字だけだ」

lecture08b

【うんちく】

コマーシャルな落語

実在の江戸懐石料理の名店・百川が
宣伝のため、実際に店で起こった事件を
落語化して流布させたとも、創作させたともいわれます。

いずれにしても、こういう成り立ちの噺は、
現在これだけでしょう。

ペリーもびっくり?の名店

「百川」は代々日本橋浮世小路に店を構え、
「浮世小路」といえばまず、この店を連想するほどの超有名店でした。

もともとは卓袱(しっぽく=中華風鍋料理のはしり)料理店で、
安永6年(1777)に出版された江戸名物評判記「評判江戸自慢」に
「百川 さんとう 唐料理」とあります。

創業時期は詳しくは分かりませんが、
明治32年の「文藝倶楽部」に載った二代目古今亭今輔の速記によると、
芳町にあった料亭「百尺」の分店だったとか。

天明年間(1781~89)には最盛期を迎え、文人墨客が書画会などを催す
文化サロンとしても有名になりました。

この店の最後の花は、安政元年(1854)にペリー一行が再来日した際、
幕命で千両の予算で百川一店のみ饗応を受け持ったことでしょう。
そのときのメニューがまだ残っているといいますが、
中でも柿にみりんをあしらったデザートは、彼らを喜ばせたとか。

明治初年に廃業しました。

日本橋浮世小路

「うきよしょうじ」と読みます。

現・中央区日本橋室町二丁目の東側を入った横丁で、
明和年間以後の江戸後期には
飲食店が軒を並べ、
「百川」は、路地の突き当たり右側にあったといいます。

四神剣(しじんけん)

祭りに使用した四神旗です。

四神は四方の神の意味で、
青龍(東)白虎(西)朱雀(南)玄武(北、玄=亀)の図が描かれ、
旗竿に鉾がついていたため、この名があります。

神田祭、山王祭のような大祭には欠かせないもので、
その年の当番の町が一年間預かり、
翌年の当番に当たる町に引き継ぎます。

つまりは、五輪旗のようなものですね。

長谷川町三光新道

「さんこうじんみち」と読みます。

現・中央区日本橋堀留二丁目の
大通り東側にある路地です。

入り口が目抜き通りに面している路地を
江戸では新道と呼びました。

円生が「家元」の噺

前述した明治32年の今輔のものを除けば、
古い速記は残されていません。

古くから三遊派(三遊亭)系統の噺で、
この噺を戦後、一手専売にしていた六代目円生は、
義父の五代目円生から継承していました。

昭和40年代の一時期、若手落語家が競って
この「百川」を演じたことがありましたが、
すべて「家元」・円生に稽古してもらったもの。

そのほか、五代目古今亭志ん生が時々演じました。
志ん生のサゲは、若い衆のリーダーが市兵衛で、
「百兵衛に市(=一)兵衛はかなわない」というもの。
これは「多勢に無勢はかなわない」をダジャレにした
「太兵衛(たへえ)に武兵衛(ぶへえ)はかなわない」
という「永代橋」のオチを、さらにくずしたものでしょうが、
あまり感心しません。

現役では、そのころの「若手」だった三遊亭円楽、
三遊亭円窓、柳家小三治らが今も演じ、次代に伝えています。

カモジ先生はえらい人

この噺で、とんだとばっちりを被る鴨池先生。
実在も実在、本名が清水左近源(みなもとの)元琳宜珍といういかめしさで、
後年、江戸市井で開業したとき、改名して鴨池元琳(がんりん)。
鴨池は、「かもいけ」と読み、
「かもじ」は、この噺のゴロ合わせに使えるように、
落語家が無断で読み変えただけでしょう。
実にどうも、けしからんもんで。

十一代将軍・家斉の御殿医を勤めたほどの、
江戸後期の漢方外料(=外科)の名医中の名医。
「瘍科撮要」という全三巻の医書を口述しています。

したがって、本来なら町人風情が近寄れもしない身分ながら、
晩年は官職を辞して、市井で貧しい市民の治療に献身したという、
まさに「赤ひげ」そのものだったとか。

この1枚:柳家小三治/百川

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