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2006.01.02

今戸の狐(いまどのきつね)/落語

この噺の根本は、いすかのかけ違い。その妙が楽しめます。

安政のころ。

乾坤坊(けんこんぼう)良斎という
自作自演の噺家の弟子で、
良輔(りょうすけ)という、こちらは作者専門の男。

どう考えても作者では食っていけないので、
一つ噺家に転向しようと、
当時大看板で、三題噺の名人とうたわれている
初代・三笑亭可楽に無理に頼み込み、弟子にしてもらった。

ところが、期待とは大違い。

修行は厳しいし、
客の来ない場末の寄席にしか出してもらえないので、
食う物も食わず、これでは作者の方がましだったという体たらく。

内職をしたいが、
師匠がやかましく、
見つかればたちまちクビは必定。

しかし、もうこのままでは餓死しかねないありさまだから、
背に腹は代えられなくなった。

たまたま住んでいたのが今戸で、
ここは今戸焼きという、
素焼きの土器や人形の本場。

そこで良輔、
もともと器用な質(たち)なので、
今戸焼きの、狐の泥人形の彩色を、
こっそりアルバイトで始め、何とか糊口をしのいでいた。

良輔の家の筋向かいに、
背負い小間物屋の家がある。

そこのかみさんは千住(通称骨=コツ)の女郎上がりだが、
なかなかの働き者で、
これも何か手内職でもして家計の足しにしたいと考えていた矢先、
偶然、良輔が狐に色づけしているところを見て、
外にしゃべられたくなければあたしにも教えてくれ
と強談判。

良輔も承知するほかない。

一生懸命やるうちにかみさんの腕も上がり、
けっこう仕事が来るようになった。

こちらは中橋の可楽の家。

師匠の供をして夜遅く帰宅した前座の乃楽(のらく)が、
夜中に寄席でクジを売って貰った金を、
楽しみに勘定していると、軒下に雨宿りに飛び込んできたのが、
グズ虎という遊び人。

博打に負けてすってんてんにされ、
やけになっているところに
前座の金を数える音がジャラジャラと聞こえてきたので、
これはてっきりご法度の素人バクチを噺家が開帳していると思い込み、
これは金になるとほくそ笑む。

翌朝、
早速、可楽のところに押しかけ、
お宅では夜遅く狐チョボイチ(博打の一種)をなさっているようだが、
しゃべられたくなかったら金を少々お借り申したい
と、ゆする。

これを聞いていた乃楽、
虎があまりキツネキツネというので勘違いし、
家ではそんなものはない、
狐ができているのは今戸の良輔という兄弟子のところだと教える。

乃楽から道を聞き出し、
いまどまでやって来た虎、
早速、良輔に談じ込むが、どうも話がかみ合わない。

「どうでえ。オレにいくらかこしらえてもらいてえんだが」
「まとまっていないと、どうも」
「けっこうだねえ。どこでできてんだ?」
「戸棚ん中です」

ガラリと開けると、中に泥の狐がズラリ。

「なんだ、こりゃあ?」
「狐でござんす」
「間抜けめっ、オレが探してんのは、骨の寨だっ」
「コツ(千住)の妻なら、お向こうのおかみさんです」

講釈名人の実話

江戸中期の名人・乾坤坊良斎(1769~1860)が、
自らの若いころの失敗話を弟子に聞かせたものをもとに
創作したとされます。

良斎は神田松枝町で貸本屋を営んでいましたが、
初代三笑亭可楽門下の噺家になり、のち講釈師に転じた人。
本業の落語より創作に優れ、
「白子屋政談」ほかの世話講談をものしました。

この噺は、良斎が菅良助の名で噺家だったころの体験談を
弟子の二代目良助のこととして創作(あるいは述懐)しているため、
話がややこしくなっています。

良斎の若い頃なら文化年間(1804~18)ですが、
この人が噺家をあきらめ、剃髪して講釈師に転じたのは
天保末年(1840年ごろ)といわれ、
長命ではあったもののもう晩年に近いので、
やはり弟子のことにしないと無理が生じるため、
噺の時代は安政期(1854~60)に設定してあります。

志ん生専売の「楽屋ネタ」

明治期の初代三遊亭円遊の速記が残りますが、
古風な噺で、オチの「コツ」や今戸焼など、
現在ではまったく分からなくなっているので、
戦後は五代目古今亭志ん生しか演じ手がありませんでした。
志ん生の二人の子息、十代目金原亭馬生と古今亭志ん朝が
継承して手掛けていたため、現在でもこの一門を中心に
ホール落語などではたまに聴かれます。

落語家自身が主人公になる話はたいへんに珍しく、
その意味で、噺のマクラによくある「楽屋ネタ」を
ふくらませたものともいえるでしょう。

幕末の江戸の場末の風俗や落語家の暮らしぶりの
貴重なルポになっているのが取り得の噺ですが、
志ん生も、一銭のうどんしかすすれなかったり
「飯が好きじゃあ噺家になれねえよ」と脅されたりした
昔の前座の貧しさをマクラで面白おかしく語り、
客の興味を何とかつなげようと苦心していました。

今戸焼

九代目桂文治が得意にした「今戸焼」
(近日アップ予定)にも登場しますが、
起源は天正年間(1573~91)に遡るという焼物。

土器人形が主で、火鉢や灯心皿も作ります。

狐チョボイチ

単に「狐」、また「狐チョボ」ともいいます。

寨を三つ使い、
一個が金を張った目と一致すれば掛け金が戻り、
二個一致すれば倍、
三個全て一致すれば四倍となるという、
ギャンブル性の強いバクチです。

本来、「チョボイチ」がサイコロ一つ、「丁半」が二つ、
「狐」が三つと決まっているので、
厳密には「狐チョボイチ」は誤りでしょう。

このバクチ、イカサマや張った目のすり替えが行われやすく、
終いには狐に化かされたように、
「誰が自分の銭ィ持ってっちゃったんだか、
わからなくなっちまいます」(志ん生)ので、
この名が付いたとか。

また、女郎のように人をたぶらかす習性の者を
「狐」と呼んだので、
噺の内容から、当然この言葉は
それと掛けてあるわけです。

寄席くじ

江戸時代の寄席では、中入りの時、
前座がアルバイトで十五、六文のくじを売りにきたもので、
前座の貴重な収入源でした。

これも志ん生によると、景品は
きんか糖でこしらえた「鯛」や「布袋さま」と決まっていたようで、
当たっても持っていく客は少なく、のべつ
同じものが出ていたため、終いには鯛のうろこが
溶けてなくなってしまったとか。

コツって?

千住小塚原(現・荒川区南千住八丁目)の異称です。

刑場で有名ですが、岡場所(私娼窟)があり、
「藁人形」にも登場しました。

刑場から骨を連想し、骨ケ原(コツガハラ)から
小塚原(コヅカッパラ)となったもので、
サゲに通じる「コツの妻」は、
骨製の安物の寨と妻を掛けた地口です。

今戸/中橋(なかばし)

今戸は、現・現・台東区今戸一、二丁目で、
江戸郊外有数の景勝地でしたが、今は見る影もありません。
現在は埋め立てられた今戸橋は、文禄年間(1592~96)以前に
架橋された古い橋で、その東詰には文人墨客が集った
有名な料亭・有明楼がありましたが、
現在墨田公園になっています。

南詰には昭和4年、言問橋が架けられるまで
対岸の三囲神社との間を渡船でつなぐ
「竹屋の渡し」がありました。

中橋は現・中央区八重洲一丁目。
「錦明竹」「代脈」「中沢道二」ほかにも登場します。

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コメント

お邪魔いたします。
この噺の登場する今戸焼の狐は昔江戸東京のどこのお稲荷様にも奉納されていたものなんですが、瀬戸物のお狐さんのほうが堅牢なためもあり戦前から瀬戸物に今戸焼の狐が駆逐されはじめて、最近では浅草の被官稲荷様のだけまとまった今戸焼の狐が奉納されていたのですが、ついにその狐も京都で作られたものにとって替わってしまいました。信仰の上ではどんな狐でも問題はないですが、やっぱり噺に出てくる今戸焼の狐が今でも現役だということがひとつの値打ちだったと思います。東京人のひとりとしてはさびしい限りです。

投稿: いまどき | 2012.03.14 12:06

いまどき様

今戸焼について、貴重なご教示ありがとうございました。

広重の「名所江戸百景」中の「橋場の渡」で、
かわら窯から煙が立ち上っている風景は
知る人ぞ知るですが、今戸焼は江戸独特の素焼で、
江戸根生の者、江戸に愛着を持つ者にとっては、
何を見ても空しいばかり、の時代になり果てました。

                   (たか)

投稿: たか | 2012.03.16 15:13

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。

投稿: 職歴書の書き方 | 2013.02.13 12:39

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