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2008.06.16

紫檀楼古木(したんろうふるき) 落語

渋い噺。古木の爺さんが妙にカッコいいですね。

ある冬の夕暮れ、薬研堀のさる家。

なかなかおつな年増で、
芸事ならば何でもいけるというご新造が、
女中一人と住んでいる。

「らおやーァ、きせるー」
と売り声がしたので出てみると、
ボロボロの半纏の袖口が
水っ洟でピカピカ光っている、汚い爺さん。

ちょうどご新造の煙管(きせる)が詰まっていたので、
女中が羅宇(らお)の交換を頼む。

いやに高慢ちきな態度で、
専門家の目で見ると趣味の悪い代物なのに、
金がかかっていることを自慢たらたらなので、
爺さんは嫌な気がしたが、仕事なのでしかたがない。

玄関先で煙管をすげ替えていると、
ご新造がそれを窓から見て、
あんな汚らしい爺を煙管に触れさせるのはイヤだ
と、文句を言う。

二人の、汚い汚いという言葉が聞こえてきたので、
爺さんはむっとして、代金を受け取る時、
これをご新造に取り次いでほしい
と、何か書いてある紙切れを渡した。

ご新造がそれを読んでみると
「牛若のご子孫なるかご新造の吾れを汚穢(むさ)し(=武蔵坊)と思いたまひて」
という、皮肉な狂歌。

だんなが狂歌をやるので、
自分も少しはたしなみがあるご新造。

「ふーん」
と感心して、矢立てでさらさらと
「弁慶と見たは僻(ひが)目かすげ替えの鋸もあり才槌もあり」
と、返歌をしたためて届けさせる。

それを爺さんが見て、またも、
「弁慶の腕にあらねど万力は煙管の首を抜くばかりなり 古木」
と、今度は署名入りの返歌をよこしたので、
その署名を見てご新造は仰天。

紫檀楼古木といえば、
だんなの狂歌の先生の、そのまた先生という、狂歌界の大名人。

元蔵前の大きな羅宇問屋の主人だったが、
番頭にだまされて店をつぶされ、
今は裏店(うらだな)に住んで、市中を羅宇のすげ替えに歩く身。

ご新造は、早速無礼を詫びて家に招き入れ、
とりあえず、お風邪でも召しては、と綿入れの羽織を差し出す。

古木、断って
「ご親切はありがたいが、私はこのこの荷物をこう担げば、
はおりゃー、着てるゥー(らおやー、きせるー)」

【うんちく】

現行は短縮版

原話は不詳で、文化年間(1804~17)に作られた、古い狂歌噺です。

最古の速記は、明治28(1895)年6月、雑誌「百花園」に掲載の
二代目柳家小さんのものですが、
小さんは当時既に引退していて、隠居名「禽語楼」を名乗っています。

その小さんのバージョンは、現行よりかなり長く、
この前に、零落した古木が女房に、別れてくれと迫られ、

いかのぼり長き暇(いとま)にさるやらば
切れて子供の泣きやあかさん

と詠んで、女房が思いとどまるくだり、
子供が、自身番の前でいたずらをし、町役になぐられて
泣いて帰ってきたので、

折檻(せっかん)を頂戴いたすお蔭には
伜面目なく(無く=泣く)ばかりなり

と詠んで、町役を謝らせる逸話を付けています。

円生、彦六の演出

戦後は八代目林家正蔵(彦六)と六代目三遊亭円生という、
同世代で犬猿の仲といわれた両巨匠が、競うように演じました。

二人は共に、円朝直門の最後の一人、
三遊一朝(1847~1930)に習ったもの。

やり方では、円生の方が、ご新造と女中のやりとりなど、
細かくなっています。

正蔵は、ご新造の返歌の「すげ替えの」を、「背に負いし」
としていますが、こうした演者による細かい異同は、
昔からあったようです。

また、サゲ近くでご女中がご新造にたしなめられ、
ペコペコしながらもつい「今は落ちぶれて」だの、
「これは私がいただいて、私のボロ半纏をこのじじいに」
などと口にしてしまうくだりが、円生演出にありましたが、
これは二代目小さんからの踏襲でした。

正蔵は、取り次ぎの女中が最後まで何が何やらわからず、
つっけんどんのまま終わるやり方でした。

狂歌とは? その1

こっけい味を骨子とする、和歌のジャンルとしては
平安時代からありましたが、歌壇をはばかり、「言いすて」として、
記録されることはほとんどありませんでした。

近世に入って江戸初期、松永貞徳(1571~1653)の指導で、
大坂で盛んになりました。

初期には石田未得の「吾吟我集」のような
古歌のパロディーが主流でした。

狂歌とは? その2

江戸では、海の向こうでナポレオンが生まれた明和6(1769)年、
唐衣橘洲(からごろも・きっしゅう、1743~1802)が
自宅で狂歌会を催したのがきっかけで、同好の大田南畝
(蜀山人、1749~1823)らと盛んに会を開くうち、
これが江戸中の評判に。

天明年間(1781~89)になると、狂歌の大ブーム、
黄金時代を迎えました。
その時期の狂歌は、自由な機知と笑いが溢れ、
「天明ぶり」とうたわれています。

その後、文化年間(1804~18)になると低俗化し、
次第に活力を失います。

狂歌師の中でも蜀山人は偶像的存在で、
落語にも、その逸話や狂歌を紹介するだけの
多くの「狂歌噺」が生まれましたが、
今ではこの「紫壇楼古木」を除いてすたれ、
それすら、円生、正蔵没後は、ほとんど後継者がいません。

噺家兼業の狂歌名人

紫壇楼古木(1777~1832)は、この噺で語られる通り
元は大きな羅宇屋の主人でした。

朱楽管江(あけらかんこう、1740~1800)に師事した
寛政から文化年間にかけての狂歌後期の名匠です。

同時に落語家でもあって、狂歌噺を専門にしていたため、
その創始者ともいわれます。
本名は藤島古吉。

辞世は、

六道の辻駕籠に身はのり(乗り=法)の道
ねぶつ(念仏)申して極楽へ行く

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