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2009.04.16

世辞屋(せじや)  落語

これも明治の噺。IT全盛の現代では少々間が抜けてますが。

明治の文明開化の世の中というので、
蓄音機という不思議なものが日本に入ってきた。

もうけ口というのはどこに転がっているかわからないもので、
それにヒントを得て、箱を開けると
各商売別に、さまざまな世辞が飛び出してくる機械を発明した男がいる。

この世辞機械がたちまち世間の大評判となり、
毎日客が引きも切らないありさま。

もともと、世辞が苦手な連中ばかりが買いに来るので、
どんな商売にしても、あまり愛想のよさそうな客はいない。

年のころなら二十二、三の、
鼻筋高く、目がキリキリとつり上がった、
いかにもかんしゃく持ちという感じの女が、世辞を買いに来た。

浜町の待合の娘だが、
生まれつきとはいえ、客商売の家で始終、仏頂面では具合が悪いから、
いい世辞を仕入れてこい、と、母親に言われたそうだ。

小僧が箱を持ってくる。

中から世辞が、
「おやまァ、しばらく。どうなさったの。
あれっきりいらっしゃらないから心配しておりましたよオ。
いえ、あの子がさ、
『だんながお帰ンなさると恋しくてたまらなくなる』なんてね。
罪作りですよォ。ちょいと今日はいいお召しだこと
……お年始のお帰りで。お供さん、ご苦労さま。
今お茶を……だんな、まァ、お二階へ。
すぐあの子を呼びにやりますから。
……あれまァ、そんなこと言ったって
……まァとにかくお上がんなさいまし。
これ、お茶を……いらっしゃいまし。まァ、だアんな……」
という具合。

女は喜んで買っていく。

入れ違って入ってきたのが、腰に煙草入れを差した中年男。

「はい、ごめんなさい」
「いらっしゃい」

男「これはこれは、ご普請がお上手ですな。
敷居は赤松で……嫌みがありません。
この戸棚の扉は金革に更紗(さらさ)。
なかなかこれだけのものはありません。
さすがに世辞屋という文明開化のご商売。
学問がおありにならなければできないもんで。
……やあ、これはどうもいただきます。
いや、いいお茶で。これは恐れ入ります。
お菓子まで。藤村(ふじむら)の鶯餅で。うまいね、実に。
……けっこうなお菓子鉢。お火入れは黄瀬戸、上製ですなあ。
こんなご商売をなさるだけあって、ご主人は大黒さま、
番頭さんもごあいきょうがあって
……こんなお店に買いに来た私の幸せで。
さてと、世辞のいいのを、二つ三つ見せてください」
「小僧、箱を片づけちまいな」
「もしもし、どうかなさった?」
「手前では、同業者お断りです」

【うんちく】

円朝の文明開化風刺

三遊亭円朝・作で、現在残る同人最古のテキストは
明治23年2月3日付け、雑誌「花筐」掲載の速記です。

円朝は政治家始め、上流人士のひいきが多かったので、
当時ごく一部の上層階級にしか知られていなかった
時代最先端の情報を、いち早くキャッチできる立場でした。

その時代を先取りした先見の明は見事ですが、
文明開化という時代色があまりに濃いため、
現在は演じ手がありません。

なお、あらすじでは端折りましたが、本来は
女の次に芝居茶屋(初出では新富座付き、改稿では
歌舞伎座付き)の若い者が世辞を買いに来ます。

春陽堂版「円朝全集」第十三巻所収の改稿では、
さらにその後に神田開成学校の書生が登場するなど、
噺が長くなり、何度も手を入れた跡がうかがえます。 

それ以外では、まだ円朝在世中の明治32年6月、
「百花園」に掲載された、門下の初代三遊亭金馬
(のち二代目小円朝)の「蓄音機」と題した速記が残ります。

漱石の血糖を上げた? 藤村の羊羹

宝暦年間(1751~64)創業の老舗で、
東京を代表する和菓子店の、
日本橋下槇町にあった支店です。

甘いものに目がなかった夏目漱石の大好物で、
同人の「猫」や森鷗外の「雁」にも登場する
有名店ですが、残念ながら現在休業中のようですね。

チコンキ事始 その1

蓄音機は、当初は蘇音器と呼びました。
音がよみがえる、蘇生する意です。

東京言葉では「チコンキ」で、五代目古今亭志ん生
(明治23年=1890年生まれ)の「チコンキの犬みてえに」
というギャグは、アナクロながら結構ウケました。
これはもちろん、某レコードレーベルの有名な
マスコットを指したものです。

エディソンがフォノグラフ、つまり錫管円筒の
音盤を用いる蓄音機を発明したのが1877(明治10)年。

日本では、翌明治11年、来日した英国人技師・
ユーイングによる東京帝大での試作実験を経て、
早くもその翌年、明治12年3月に東京・銀座で
フォノグラフの公開実験が行われました。 

フォノグラフの改良型の、グラフォフォンといわれる
蝋管レコードが、グラハム・ベルにより発明されたのが
1881(明治14)年。その六年後の明治22年1月20日、
駐米公使・陸奥宗光の声を吹き込んだ蝋管蓄音機が
鹿鳴館で、朝野の名士を集めて初めて公開。

これが事実上、日本のレコードの夜明けとなりました。

チコンキ事始 その2

見世物としてレコードが初お目見えしたのは
明治23年6月、浅草花屋敷。

広告に「フオノグラフ 一名仮色機械」とあるので、
九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎始め
当時の人気役者の声色(=声帯模写)を錫管レコードに刻み、
ゴム管のイヤホンで聞かせたものでしょう。

このときのフォノグラフは、エジソンがベルへの対抗上、
錫管方式の自作を大幅改良したものでした。
エジソンは日本への売り込みに躍起で、
同年6月、外交ルートを通してフォノグラフを明治天皇に献上。
しかし、しだいにグラモフォンに押され、
明治20年代後半には、フォノグラフは次第に姿を消します。

落語レコード第一号

初めて蓄音機の国産品が作られたのが、
明治24年とされますが、はっきりしません。

蓄音機製造、販売、輸入が
商業ベースに乗りはじめたのが明治20年代後半。
明治32年、浅草に開店した三光堂は、英国グラモフォンと契約、
蓄音機はもとより、初めて本格的に蝋管、
ついで初期の円盤レコードの販売に乗り出します。

円朝没後三年の明治36年、異色の英国人落語家、
初代快楽亭ブラック(1857-1923)の斡旋で、
英グラモフォンに自身を含め、
人気落語家を多数集めて蝋管初吹き込みしたのが
記録に残る最初の落語音源で、もちろん三光堂から発売。

このときは落語だけではなく、さまざまなジャンルの芸人を
網羅したようで、ブラック自身、九面に吹き込みましたが、
現存するのはそのうち「蕎麦屋の笑」と題する随談、
ほかに当時の爆笑王・初代三遊亭円遊の「菅原息子」、
初代三遊亭円右の「アズサメ」など、ごくわずかです。

ブラック、円遊、円右のこのときのレコードは、長らく
文化財クラスの超レア盤になっていましたが、1987年、
コロムビアで初めて復刻、CD化されました。

参考:倉田喜弘著「日本レコード文化史」(朝日新聞社刊)ほか

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