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2009.04.05

素人洋食(しろうとようしょく) 落語

おっとどこかで聴いたような。「寝床」じみてますね。

文明開化の東京。

いまだ旧平という地主、大変な金満家で、
土地や家作(貸家)はもちろん、
桑畑も持っているいいご身分だが、
開化が大嫌いで、いまだにチョンマゲを乗せ、
人力車が通ると胸が悪くなるだの、
馬車の音がすると頭痛がするなどと言うので、
長屋の者に、デボチン頭の旧平と陰口をたたかれている。

当人もうすうすそれを知っているから、
オレに金を借りている連中ばかりなのに生意気だ、
今に見返してやると一念発起、
文明開化に百八十度転向して、
なんとか流行の先端を行く洋食屋を開業することにした。

コックを雇うのはめんどうだから、
だんなが自分で料理をすることに決め、
勧工場(デパート)で
一銭五厘の「西洋料理煮方法」なる
怪しげな虎の巻を買ってきて、
要は魚油でなんでもかんでも炒めて、
パンをくわせておけばいいのだから
と、さっそく大家以下長屋の連中を招集し、
料理の実験台にすることに決めた。

勝手に決められた奴こそいい迷惑で、
なんだかんだと理由をこしらえて誰も来ない。

怒った旧平だんな、
来ない奴は洋食ならぬ店立てをくわせた上、
貸金を利息共全部取り立てると脅すので、
しかたなく、みんな集まる。

あのだんなのことだから、
陰口をきいたのを根に持って毒を入れるかもしれない
と、毒消しを用意したり、
六十三の婆さん(!)が、
老い先短い命だから
と、せがれの身代わりに念仏を唱えて出てきたりと、
命がけの騒ぎ。

ところが、やたらパンばかり出てくるので一同閉口。

台所からお経のようなうなり声が聞こえるから、
どうしたかと聞くと、魚油と水が火に入って燃え上がったが、
たった一人の相談役の道具屋の吉兵衛がいなくなり、
だんなが困ってうなっている、という。

スプンとかいうものがほしいと注文が出たが、
だんなは知らないのでスッポンと聞き違え、
さっそく取り寄せて、生きているままテーブルに出したので、
みんな食いつかれて大騒ぎ、
という一幕の後、ようやく吉兵衛が帰ってくる。

「みなさん、どうしました」
「やたらパンばかり出て困ります」
「パンの多いはず。長屋一同バタ(バター=ばか)にされた」

【うんちく】

洋食ことはじめ 

初めて日本人が洋食を口にしたのは、記録上は、
嘉永7(=安政元、1854)年、幕府の代表団が
ペリーの「黒船」に招かれての歓迎晩餐会です。

明治維新後、肉食が解禁され、まず牛鍋屋が
東京の各所に出現しました。

それ以前、慶応3(1867)年、福沢諭吉著「西洋衣食住」で
マナー、ナイフ・フォークなどの食器の紹介がなされ、
明治4年には、横浜・駒形町に最初の本格的西洋料理店
「開陽亭」がオープン。

ただし、この店は、横浜居留地の西洋人相手の商売でした。

明治5年、最初の本格的西洋料理レシピが掲載された
仮名垣魯文編「西洋料理通」が刊行され、これに
触発されたか、東京にも翌年、京橋区采女町に北村重威が
「精養軒」を開店したのを皮切りに、神田橋の三河屋、
築地日新亭、茅場町海陽(開陽?)亭などが相ついで開店。

明治10年前後には数も増え、十軒ほどの洋食屋が記録
されています。ただ、この時期はまだ、日本人でこれらの
店を利用するのは、官公吏、政治家、銀行家など、
新興上層階級がほとんどでした。

初代円遊の速記掲載の四年前、明治19年には、
築地精養軒でテーブルマナーの講習会が開かれます。
このあたりから、従前の「西洋料理」が「洋食」と
言い慣わされるなど、ようやく一般にも普及し始めました。

明治30年代に入ると、 洋食はますます定着し、39年
9月発行の東京市役所編「東京案内」には、神田、
日本橋、京橋を中心にした、比較的大規模な西洋料理店
42軒が掲載されています。

パンパンバタバタ文明開化 その1

この噺で、長屋のお歴々の悪夢のタネとなるパンは、
かなり早く、寛政7(1795)年刊の「長崎見聞録」に
すでに紹介されていますが、もちろんこの時代の記録は
もっぱら長崎の南蛮人の風俗紹介の一部に過ぎません。

幕末になり、相つぐ外国船の襲来で国防意識が高まると、
いざというときの兵糧用として、乾パンが注目を集め、
ペリー来航の二年後、安政2(1855)年には、水戸藩が
長崎へ製法習得のため、家臣を派遣した記録があります。

ただ、このパンは、むしろ固いビスケットに近いもの
だったでしょう。その後も戊辰戦争を経て、乾パンは
日本陸軍の軍隊食として定着します。

本格的なパン販売の広告は、慶応3(1867)年、横浜で
発行の「万国新聞」に早くも見えますが、明治5年刊の
「西洋料理指南」に、

「焙麦餅ハ我が飯ト一般のモノニシテ、方今横浜又ハ
築地に於テ製シテ売ルナリ」

とあるように、普及は洋食そのものより、ずっと
早かったようです。

パンパンバタバタ文明開化 その2

明治6年から7年になると、東京市内に雨後の
タケノコのごとくパン屋が繁殖。石井研堂著
「明治事物起原」によると、このころ「馬鹿の番付」で、
「米穀を喰ずしてパンを好む日本の人」が大関に
張り出されたとか。

バターとなると、前述の慶応3年の新聞広告に、
「ボットル」として販売広告がありますが、これは
恐らく輸入品で、ごく例外的なものでしょう。

国産は明治7年に試作されたものの、日本人の口に
合わなかったか、なかなか普及しませんでした。
明治13年の広告に、「牛乳、粉ミルク、バター、
クリーム、白牛酪」を製造販売する旨が見えます。
「白牛酪」はチーズのことでしょう。

一般庶民がおずおず口に入れ始めたのは、明治も
20年代に入ってからでした。

恐らく、日本人の舌にもっとも抵抗が強かったのは
乳製品で、戦後の昭和30年代になっても、バター、
チーズを受け付けない人が、都市部にもざらにいました。

円遊の開化カリカチュア

このサイトでもたびたびご紹介した、明治の爆笑王・
初代(「鼻の」)三遊亭円遊が、古典落語の「素人鰻」を
よりモダンに改作したもので、明治24年1月に「百花園」に
掲載されているので、創作は前年でしょう。

「寝床」のだんなの義太夫を、洋食に置き換えた趣もあります。

主人公のような、断髪令が出ようがどうしようが、
ガンとしてマゲを切らない士族や江戸町人は、明治末年に
至るまで少なくなかったようです。

そんな旧弊の権化が百八十度転向して、洋食に凝りだすという
おかしみは、今も昔も変らぬ日本人の「変わり身の早さ」を
面白がって、当てこすっているようです。

キワモノなので、もちろん円遊以後、後継者はありません。
円遊の速記は、今となっては落語というより、当時の貴重な
学術的文献といったところでしょう。

パンばかりやたらに食わせるシーンは、「素人鰻」の
六代目円生の演出で、蒲焼ができず、コウコと酒ばかり出す
くだりを髣髴とさせます。

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