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2009.04.23

高田馬場(たかだのばば) 落語

落語の世界のかたき討ちはこんなかんじですね。

春の盛りの浅草・奥山。

見世物や大道芸人がずらりと並び、
にぎやかな人だかりがしている。

その中で、
居合い抜きを演じたあと、がまの油の口上を述べている若い男がいて、
その後ろに美しい娘。これが鎖鎌の芸を見せる。

「その効能はなにかといえば、
金創切り傷、出痔いぼ痔、虫歯で弱るお方はないか」

そこへ人を押し分けて、六十過ぎの侍。

蝦蟇(がま)の油売りに向かって
「それは二十年ほど前の古傷にも効くか」
と侍が尋ねると、若者は
「ちょっと拝見」
と傷を見るなり
「これは投げ太刀にて受けた傷ですな」
「さよう、お目が高い」

侍が、身の懺悔(ざんげ)だから、と語るところでは、
自分は元福島の家中だが、二十年前、
下役・木村惣右衛門の妻女に横恋慕し、
夫の不在をうかがって手ごめにしようとしたところ、
立ち帰った夫に見とがめられ、これを抜き打ちに斬り捨てた。

妻女が乳児を抱え「夫の仇」とかかってくるのを
やはり返り討ちに斬ったが、女の投げた懐剣が背中に刺さり、
それがこの傷だ、と言う。

若者は聞き終わるときっと侍をにらみ
「さてこそ、なんじは岩淵伝内。
かく言う我は、なんじのために討たれし木村惣右衛門が一子惣之助。
これなるは姉あや。いざ尋常に勝負勝負」
と呼ばわったから、周りは騒然となった。

岩淵伝内は静かに
「なるほど、二十年前のことなので油断し口外したは、
拙者の天命逃れざるところ、
いかにも仇と名乗り討たれようが、今は主を持つ身。
一度立ち返ってお暇を頂戴しなければならないので、
明日正巳の刻(午前十時)までお待ち願いたい」
「よかろう。出会いの場所は」
「牛込、高田馬場」
「相違はないな」
「二言はござらん」
というわけで、仇討ちは日延べになった。

翌日。

高田馬場は押すな押すなの黒山の人だかり。
仇討ち見物を当て込み、よしず張りの掛け茶屋がズラリ。
そのどれもぎゅうぎゅう詰め。
みんな勝手を言いながら待っているが、いっこうに始まらない。

とうとう一刻(二時間)過ぎて、正午の刻に。

また日延べじゃないか
とざわつきだしたころ、
ある掛け茶屋で、昨日の侍が悠々と酒を飲んでいるのを見つけた者がある。

「もし、お侍さん、のんびりしてちゃあ困ります。仇討ちはどうなりました」
「はは、今日はなしだ」
「相手が済みますまい」
「心配いたすな。あれは拙者のせがれと娘」
「なんだって、そんなうそをついたんです」
「ああやって人を集め、
掛け茶屋から上がりの二割をもらって、楽に暮らしておるのだ」

【うんちく】

「原作者」は小塚原で獄門

前半のがまの油売りの口上は、
落語「がまの油」を踏襲しています。
この口上については本サイト
「がまの油」をご参照ください。

原話は、宝暦8(1758)年刊で講釈師・馬場文耕
(1718?-59)作「当代江都百化物」第六話
「敵討ノ化物ノ弁」です。

「百化物」は、武士出身で易者から辻講釈師に
転じた文耕が、江戸で起こったさまざまな珍談を、
風刺を交えて世話講談風にまとめた読み物で、
二十二話で中絶しています。

第六話は、この噺の通りヤラセの仇討騒動ですが、
後半が違っていて、野次馬が二人のやり取りに
夢中になっているうちに、片っ端から懐の財布を
すり取られてしまう、というオチです。

ところで、原作者の文耕は、「百化物」を上梓した
宝暦8年9月10日、日本橋槫正町の小間物屋文蔵方で
「珍説もりの雫」という政治風刺講談を口演中に
南町奉行所に検挙されました。

この講談が、当時評定所で吟味中の、美濃・郡上
八幡藩三万九千石の百姓一揆騒動を風刺したので、
お上のお咎めを受けたためです。

文耕は当初は遠島で済むはずでしたが、吟味中も
幕府を批判してやまなかったため、ついに死罪・
獄門に。同年12月25日(1759年1月23日)、
小塚原の露と消えました。

その判決を下したのが、文耕が「百化物」中で
「罪を軽く取捌(さば)かるる」名奉行とたたえた
土屋越前守だったのはなんとも皮肉で、ヨイショが
肝心なときにまったく役立たなかったわけです。

金馬十八番、近年復活

古い速記はなく、デブの円生こと五代目三遊亭円生
(1884-1940)の昭和初期のものが残るくらいです。

何と言っても、戦前から戦後にかけ、三代目
三遊亭金馬(1894-1964)の十八番でした。

金馬歿後、故・三笑亭夢楽が手掛け、ついで
古今亭志ん朝が演じて以来、若手も
高座に掛けるようになりました。

志ん朝が1981年4月12日夜、駒込・三百人劇場での
伝説的な独演会「志ん朝七夜」の第二夜に演じた
ライブが近年CD化され、その軽快なテンポと
現代的センスで、この噺の新たなスタンダードとして
世に残りました。

その他、柳家小のぶのCDも出ています。

何でもありの浅草・奥山

奥山は浅草寺裏手の一帯で、江戸から明治末期まで、
見世物小屋が所狭しと並ぶ、一大歓楽街でした。

享保年間(1716~36)には軍書講釈、ついで
宝暦(1751~64)ごろには辻講釈がよく出ましたが、
文化年間(1804~18)ごろから見世物が盛んになり、
独楽回し、居合い抜き、軽業などの大道芸、
女相撲の興行、因果物などのグロテスクな見世物、
その他ほとんど何でもありの「魔境」と化します。

明治になると浅草公園五区に区分され、あいかわらず
見世物で賑わいましたが、明治末、隣の六区が
活動写真や芝居小屋を中心に大歓楽街を形成すると、
しだいに人手を奪われ、その役割を終えました。

高田の馬場って?

古くは「たかたのばば」。

地名としては現・新宿区戸塚一、二丁目から
西早稲田、早大正門付近の馬場下町あたりまでの
かなり広い範囲を含みました。

家康の側妾で、越後・高田藩主となった松平忠輝の
実母・茶阿局が賜った芝地で、同人が「高田さま」
と呼ばれたことに由来します。

その後、寛永13(1636)年に馬場が設けられ、現在の
穴八幡神社付近で流鏑馬が催されたといいます。

安兵衛仇討は三人斬り?

この噺の仇討騒動は、もちろん、講談や映画で
おなじみの赤穂浪士・飲兵衛安こと堀部(中山)
安兵衛の「高田馬場仇討」が元ネタです。

ところで、元禄7(1694)年旧暦2月11日に起こった
この事件、講釈師が言う派手な「十八人斬り」は
真っ赤な嘘で、実際、安兵衛が斬ったのは
村上三郎右衛門以下三名に過ぎないというのが
現在の定説のようです。

まあ、伝説は無限に広がるもので。

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