« たばこの火(たばこのひ) 落語 | トップページ | 長者番付(ちょうじゃばんづけ) 落語 »

2009.05.01

ちきり伊勢屋(ちきりいせや)  落語

この噺、珍しく小さん系のものですが、円生や彦六がやってました。

旧暦七月の暑い盛り。

麹町五丁目のちきり伊勢屋という質屋の若主人・伝二郎が、
平川町の易の名人白井左近のところに縁談の吉凶を診てもらいに来る。

ところが左近、
天眼鏡でじっと人相を観察すると
「縁談はあきらめなさい。額に黒天が現れているから、
あなたは来年二月十五日九ツに死ぬ」

あなたの亡父・伝右衛門は、苦労して一代で在を築いたが、
金もけだけにとりつかれ、人を泣かせることばかりしてきたから、
親の因果が子に報い、あなたが短命に生まれついたので、
この上は善行を積み、来世の安楽を心掛けるがいい
と言うばかり。

がっかりした伝二郎、
家に帰ると忠義の番頭・藤兵衛にこのことを話し、
病人や貧民に金を喜捨し続ける。

ある日、
弁慶橋のたもとに来かかると、
母娘が今しもぶらさがろうとしている。

わけを尋ねると、
今すぐ百両なければ死ぬよりほかにないというので、
自分はこういう事情の者だが、
来年二月にはどうせ死ぬ身、その時は線香の一本も供えてほしい
と、強引に百両渡して帰る。

伝二郎、それからはこの世のなごりと吉原で派手に遊びまくり、
二月に入るとさすがに金もおおかた使い尽くしたので、
奉公人に暇を出し、十五日の当日には盛大に「葬式」を営むことにして、
湯灌代わりに一風呂あび、
なじみの芸者や幇間を残らず呼んで、
仏さまがカッポレを踊るなど大騒ぎ。

ところが予定の朝九ツも過ぎ、
菩提寺の深川・浄光寺でいよいよ埋葬となっても、なぜか死なない。

悔やんでも、もう家も人手に渡って一文なし。

しかたなく知人を転々として、
物乞い同然の姿で高輪の通りを来かかると、
うらぶれた姿の白井左近にバッタリ。

どうしてくれる
とねじ込むが、実は左近、
人の寿命を占った咎(とが)で江戸追放になり、
今ではご府内外の高輪大木戸で裏店住まいをしている、
という。

左近がもう一度占うと、不思議や額の黒天が消えている。

あなたが人助けをしたから、天がそれに報いたので、
今度は八十歳以上生きる
という。

物乞いして長生きしてもしかたがない
と、ヤケになる伝二郎に、
左近は品川の方角から必ず運が開ける
と励ます。

その品川でばったり出会ったのが、
幼なじみで紙問屋・福井屋の伜・伊之助。

これも道楽が過ぎて勘当の身。

伊之助の長屋に転がりこんだ伝次郎、
大家のひきで、伊之助と二人で辻駕籠屋を始めた。

札の辻でたまたま幇間の一八を乗せたので、
もともとオレがやったものだ
と、強引に着物と一両をふんだくり、
翌朝質屋に行った帰りがけ、見知らぬ人に声をかけられる。

ぜひにというので、さるお屋敷に同道すると、
中から出てきたのはあの時助けた母娘。

あなたのおかげで命も助かり、
この通り家も再興できたと礼を述べた母親、
ついては、どうか娘の婿になってほしい、
というわけで、左近の占い通り品川から運が開け、
夫婦で店を再興、八十余歳まで長寿を保った。

「積善の家に余慶あり」
という一席。

【うんちく】

原話、類話は山ほど

直接の原話は、安永8(1779)年刊「寿々葉羅井」
(すすはらい)中の「人相見」です。

これは、易者に、明朝八ツ(午後2時)までの命と
宣告された男が、家財道具を全部売り払って
時計を買い、翌朝それが八ツの鐘を鳴らすと、
「こりゃもうだめだ」と尻からげで逃げ出したという、
他愛ない話です。

ところで、易者に死を宣告された者が、人命を
救った功徳で命が助かり、長命を保つという
パターンの話は、古くからそれこそ山ほどあり、
そのすべてがこの噺の原典または類話といえるでしょう。

その大本のタネ本とみられるのが、中国の説話集
「輟耕録」中の「陰徳延寿」。それをアレンジしたのが
青木鷺水著の浮世草子「古今堪忍記」(宝永5=1708年刊)
巻一中の説話で、さらにその焼き直しが、根岸鎮衛著
「耳嚢」(「佃祭」参照)巻一「相学奇談の事」。

また、同パターンでも、主人公が船の遭難を免れるという、
細部を変えただけなのが同じ「輟耕録」の「飛雲の渡し」
と「耳嚢」の「陰徳危難を遁れし事」(ともに「佃祭」参照)で、
これらも「佃祭」の原話であると同時に
「ちきり伊勢屋」の原典でもあります。

円生、彦六が競演

明治27年1月の二代目柳家(禽語楼)小さんの
速記が残ります。

小さん代々に伝わる噺ですが、先年物故した
五代目は手掛けていません。三代目小さんの
預かり弟子だった時期がある、八代目林家正蔵
(彦六)が、小さん系のもっとも正当な演出を
受け継いで演じていました。

系統の違う、六代目三遊亭円生が晩年熱演しましたが、
円生は上記二代目小さんの速記から覚えたものと
いいますから、正蔵のとルーツは同じです。

戦後では、この二人が双璧でした。

なお、名人・白井左近の実録については不詳です。
二代目小さん以来、左近の易断により、旗本の
中川馬之丞が剣難を逃れる逸話を前に付けるのが
本格で、それを入れたフルヴァージョンで演じると、
二時間は要する長編です。

この旗本のくだりだけを独立させる場合は、
「白井左近」の演題になります。

ちきりって?

「ちきり伊勢屋」の通称の由来です。

「ちきり」はちきり締めといい、真ん中がくびれた
木製の円柱で、木や石の割れ目に押し込み、
鎹(かすがい=くさび)にしました。

また、同じ形で、機織の部品で縦糸を巻くのに
用いたものも「ちきり」と呼びました。下向きと
上向きの △の頂点をつなげた記号で表され、
質屋や質両替屋の屋号、シンボルマークによく
用いられます。

これは、千木(ちぎ=質屋が用いる竿秤)とちきりの
シャレであるともいわれます。

弁慶橋? 師匠、食い違いです!

伝二郎が首くくりを助ける現場です。

ところで、六代目三遊亭円生の速記では、

 ……赤坂の田町へまいりました。(中略)
 食違い、弁慶橋を渡りましてやってくる。
 あそこは首くくりの本場といいまして……

とあります。弁慶橋は江戸に三箇所あり、もっとも
有名なのが現・千代田区岩本町二丁目にかつて
あった橋で、設計した棟梁・弁慶小左衛門の
名を取ったものです。

藍染川に架かり、複雑なその水路に合わせて、
橋の途中から向かって右に折れ、その先からまた
前方に進む、卍の片方のような妙な架け方でした。

ところが、弁慶橋は神田ですから、赤坂とは
見当が違うわけで、「食違い土橋」と弁慶橋も別です。

というわけで、これは完全に円生の勘違い。
本あらすじも円生の口演、速記にそのまま従った
ため、「弁慶橋」をそのまま残しましたが、
ここで故人に成り代わり、瑣末ながら、以下で
謹んで訂正させていただきます。

赤坂の「食違い」は「喰違御門」のことで、
現在の千代田区紀尾井町、上智大学の校舎の
裏側にありました。

その門前に架かっていたのが「喰違い土橋」。

石畳が左右から、交互に食い違う形で置かれて
いたのでその名がありました。1877年、大久保
利通が惨殺されたのも、ちょうどこの付近です。

円生は、前述のように筋違いに架かっていた弁慶橋と、
この喰違い土橋を錯覚して取り違えたのでしょう。

札の辻って?

現・港区芝五丁目の三田通りに面した角地で、
天和2(1682)年まで高札場があったことから
この名がつきました。

|

« たばこの火(たばこのひ) 落語 | トップページ | 長者番付(ちょうじゃばんづけ) 落語 »

落語のあらすじ 」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/60017/44853200

この記事へのトラックバック一覧です: ちきり伊勢屋(ちきりいせや)  落語:

« たばこの火(たばこのひ) 落語 | トップページ | 長者番付(ちょうじゃばんづけ) 落語 »