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2009.06.23

山岡角兵衛(やまおかかくべえ) 落語

角兵衛獅子は軽業芸を売る商売。これは忠臣蔵物の講談を基にしたもの。

浅野内匠頭の松の廊下刃傷事件の後、
赤穂の浪士たちはあらゆる辛苦に耐え、
ある者は町人に化けて吉良邸のようすを探り、
仇討ちの機会を狙っていたが、
その一人の山岡角兵衛がついに志を得ないまま病死した。

その妻のお縫は、女ながらも気丈な者。

なんとか夫に代わって主君の仇を報じたいと、
吉良上野介のところに妾奉公に入り、
スパイとなって、後三日で上野介が米沢に出発することを突き止め、
すわ一大事とこのことを大石内蔵助に報告した。

そこで元禄十五年十二月十四日、
茶会で吉良が在宅しているこの日を最後の機会と、
いよいよ四十七士は討ち入りをかける。

その夜、
今井流の達人、美濃部五左衛門は、長屋で寝ていたが、
気配に気づき、ひそかかに主君上野介を救出しようと、
女に化けて修羅場と化した屋敷に入り込むが、
武林唯七に見とがめられて
合言葉を「一六」と掛けられ、
これはきっと賽の目だと勘づいたものの、
あわてていて「四五一、三二六」と返事をしてしまう。

見破られて、かくなる上は破れかぶれと、
獅子奮迅に暴れまわるうち、お縫が薙刀を持って駆けつけ、
五左衛門に斬りかかる。

しかし、そこは女、
逆に斬り下ろされて縁側からまっさかさま。

あわや、
と見えたその時、お縫はクルリと一回転して庭にすくっと立ち、
横に払った薙刀で五左衛門の足を払い、見事に仕留める。

これを見た大石が
「えらい。よく落ちながらひっくり返った。今宵の働きはお縫が一番」
とほめたが、それもそのはず。

お縫は、角兵衛の女房。

【うんちく】

忠臣蔵講談の翻案

原話は不詳で、忠臣蔵ものの講談を基にしたものです。

古い速記では、明治32年10月、「志士の打入り」と題した
二代目三遊亭小円朝(当時初代金馬)のものが残ります。

その没後、子息の三代目小円朝、二代目(先代)円歌が
高座に掛けましたが、二人の没後、後継者はありません。
音源は、唯一円歌のものがCD化されています。

三代目小円朝によると、二代目のは、本来は松の廊下の
くだりから始まり、討入りまでの描写が綿密で長かったとか。

明治32年の速記を見ると、脇筋で、親孝行の将軍・綱吉が、
実母の桂昌院に従一位の位階をもらって喜ぶくだりが長く、
その後、刃傷から討入りまでの説明はあっさり流しています。

サゲの「角兵衛」は角兵衛獅子で、
「ひっくり返った」は角兵衛のアクロバットから。

もう、説明なしには到底分からなくなりましたが、
角兵衛獅子については、「角兵衛の婚礼」をご参照ください。

主人同様、不運な吉良邸 1

吉良上野介屋敷は、「北本所一、二の橋通り」
「本所一ッ目」「本所無縁寺うしろ」「本所
台所町横町」などと記録にあります。

俗にいう「本所松坂町二丁目」は、
吉良邸が没収され、町家になってからの
名称なので誤りです。

現在の墨田区両国三丁目、両国小学校の
道をはさんで北向かいになります。

路地の奥にわずかに上野稲荷として
痕跡を留めていましたが、上野(こうずけ)の
二字が嫌われ、同音の「河濯」と碑に刻まれました。

主人同様、不運な吉良邸 2

明治5年に松坂町二丁目が拡張されたとき、
その五番地に編入されましたが、長い間
買い手がつかなかったといいます。

討入り事件当時は東西三十間、南北二十間、
総建坪五百坪、敷地二千坪。

上野介が本所に屋敷替えを命ぜられ、丸の内
呉服橋内から、この新開地に移ってきたのは
討入り三ヶ月前の元禄15年9月2日(1702.10.22)。

なお、事件当日の12月14日は、新暦では1703年
1月30日・火曜日で、普通言われている1702年は誤りです。
旧暦と新暦のずれを考慮に入れないためのミスですね。

当日の即死者十六人中に、
むろん美濃部某の名はありません。

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