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2009.06.24

山崎屋(やまざきや) 落語

色に狂ったご大家の若だんな。これはもう、円生と彦六で有名な噺です。

日本橋横山町の鼈甲(べっこう)問屋、
山崎屋の若だんな、徳三郎は大変な道楽者。

吉原の花魁(おいらん)に入れ揚げて
金を湯水のように使うので、堅い一方のおやじは頭を抱え、勘当寸前。

そんなある日、
徳三郎が、番頭の佐兵衛に百両融通してくれと頼む。

あきれて断ると、若だんなは
「親父の金を筆の先でちょいちょいとごまかしてまわしてくれりゃあいい。
何もおまえ、初めてゴマかす金じゃなし」
と、気になる物言いをするので、番頭も意地になる。

これでも十の歳からご奉公して、
塵っ端ひとつ自侭にしたことはない、と憤慨。

すると若だんな、ニヤリと笑い、
この間、湯屋に行く途中で、丸髷に襟付きのお召しという粋な女を見かけ、
後をつけると二階建ての四軒長屋の一番奥……じわりじわり。

女を囲っていることを見破られた番頭、
実はひそかに花魁の心底を探らせ、
商家のお内儀に直しても恥ずかしくない実のある女ということは承知なので
「若だんな、あなた、花魁をおかみさんにする気がおありですか?」
「そりゃ、したいのはやまやまだが、おやじが粋をしているうちはダメだよ」

そこで番頭、
自分に策があるからと、
若だんなに、半年ほどは辛抱して堅くしているようにと言い、
花魁の親元身請けで請けだし、出入りの鳶頭に預け、
花魁言葉の矯正と、針仕事を鳶頭のかみさんに仕込んでもらうことにした。

大晦日、小梅のお屋敷に掛取りに行くのは佐兵衛の担当だが、
「実は手が放せません。申し訳ありませんが、若だんなに」
と佐兵衛が言うとだんな、あんなのに二百両の大金を持たせたら、
すぐ使っちまうと渋る。

「そこが試しで、まだ道楽を始めるようでは末の見込みがないと思し召し、
すっぱりとご勘当なさいまし」
と、はっきり言われてだんな、困りはてる。

しかたがないと、「徳」と言いも果てず、
若だんな、脱兎のごとく飛び出した。

掛け金を帰りに鳶頭に預け、家に帰ると
「ない。落としました」

だんな、使い込んだと思いカンカン。

打ち合わせ通りに、鳶頭が駆け込んできて、
若だんなが忘れたからと金を届ける。

番頭が、だんな自ら鳶頭に礼に行くべきだと進言。

これも計画通りで、花魁をだんなに見せ、
屋敷奉公していたかみさんの妹という触れ込みで、
持参金が千両ほどあるが、どこかに縁づかせたいと水を向ければ、
欲にかられてだんなは必ずせがれの嫁にと言い出すに違いない、という筋書き。

その通りまんまとだまされただんな、
一目で花魁が気に入り、かくしてめでたく祝言も整った。

だんなは徳三郎に家督を譲り、根岸に隠居。

ある日、今は本名のお時に帰った花魁が根岸を訪ねる。

「ところで、おまえのお勤めしていた、お大名はどこだい?」
「あの、わちき……わたくし、北国でござんす」
「北国ってえと、加賀さまかい? さだめしお女中も大勢いるだろうね」
「三千人でござんす」
「へえ、恐れいったな。それで、参勤交代のときは道中するのかい?」
「夕方から出まして、武蔵屋ィ行って、伊勢屋、大和、長門、長崎」
「ちょいちょい、ちょいお待ち。そんなに歩くのは大変だ。
おまえにゃ、何か憑きものがしているな。諸国を歩くのが六十六部。
足の早いのが天狗だ。おまえにゃ、六部に天狗がついたな」
「いえ、三分で新造が付きんした」

【うんちく】

原話は家庭内暴力?

安永4(1775)年刊の漢文体笑話本「善謔随訳」中の
小咄が原話です。この原典には、「反魂香」
「泣き塩」(アップ済)の原話もありました。

これは、さる大坂の大きな米問屋の若だんなが、
家庭内暴力で毎日、お膳をひっくり返して大暴れ。

心配した番頭が意見すると(以下、江戸語に翻訳)、

「ウチは米問屋で、米なら吐いて捨てるほどあるってえのに
なんでしみったれやがって、毎日粟飯なんぞ食わしゃあがるんだ。
こんちくしょうめ」

そこで番頭がなだめていわく、

「ねえ若だんな、新町の廓の某って男をご存知でござんしょ?
その人はね、大きな女郎屋のあるじで、抱えの女はそれこそ、
天下の美女・名妓が星の数ほどいまさあね。でもね、その人は
毎晩、お手手で●●して満足していなさるんですよ」

分かったような分からんような、どうしてこれが「原話」
になるのか今ひとつ飲み込めない話ですが、案外こっちの方が
ブラック師匠向きかも知れませんな。

円生、正蔵から…アノ人へ

廓噺の名手・初代柳家小せんが明治末から大正期に得意にし、
明治43年7月、「文藝倶楽部」に寄せた速記が残ります。

このとき小せんは若干27歳で、同年4月、真打ち昇進直後。
今、速記を読んでも、その天才ぶりが偲ばれます。

五代目から六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵に継承され、
円生、正蔵が戦後の双璧でしたが、意外に演者は多く、
三代目三遊亭金馬、その孫弟子の故・桂文朝、現・談志も
持ちネタにしています。 

円生、正蔵の演出はさほど変わりませんが、後者では
番頭の妾の描写などが、古風で詳しいのが特長です。

オチも分かりにくく、現代では入念な説明がいるので、
はやる噺ではないはずですが、なぜか人気が高いようで、
ベテランの林家小のぶ、中堅の古今亭駿菊(ともにCDあり)、
桃月庵白酒はともかく、アノ二代目快楽亭ブラックまで
演っているのはお笑いです。

察するに、噺の古臭さ、オチの欠点を補って余りある、
起伏に富んだストーリー展開と、番頭のキャラクターの
ユニークさが、演者の挑戦意欲をを駆り立てるのでしょう。

北国って?

「ほっこく」と読みます。

吉原の異称で、江戸の北にあったから。
通人が気取ってそう呼んだことから、広まりました。

これに対して品川は「南」と呼ばれましたが、
なぜか「南国」とはいいませんでした。
これは品川が公許でなく、あくまで宿場で、岡場所の
四宿の一に過ぎないという、差別によるものでしょう。

なお、噺中の「道中」は花魁道中のこと。詳しくは
「千早振る」をご参照ください。

小梅のお屋敷

若だんなが掛取りに行く先で、おそらく向島・小梅村
(現・墨田区向島一丁目)の水戸藩下屋敷でしょう。

ただ、掘割を挟んで南側一帯には松平越前守(越前
福井三十二万石)、細川能登守(肥後新田三万五千石)
ほか、諸大名の下屋敷が並んでいたので、それらの
どれかかも知れません。

どこであっても、日本橋の大きな鼈甲問屋ですから、
女手が多い大名の下屋敷では引く手あまた、
得意先には事欠かなかったでしょう。

小梅村は日本橋から一里あまり。風光明媚な郊外の
行楽地として知られ、江戸の文人・墨客に愛されました。

村内を水戸街道が通り、水戸徳川家が下屋敷を
拝領したのも、本国から一本道という絶好の
ロケーションにあったからです。

なお、水戸の中屋敷は根津権現社の南側一帯
(現在の東大グラウンドと農学部の敷地)にありました。
小石川の上屋敷については「孝行糖」参照。

親許身請(おやもとみうけ)って?

親が身請けする形で、請け代を浮かせることです。

三分で新造がつきんした

オチの文句ですが、これはマクラで仕込まないと
到底、現在では分かりません。

宝暦(1751~64)以後、太夫が姿を消したので
遊女の位は①呼び出し②昼三③付け廻しの順になりました。

以上の三階級を花魁(おいらん)といい、女郎界の三役と
いったところ。「三分」は関脇にあたる「昼三」の
揚げ代ですが、この値段ではただ呼ぶだけ。

新造(しんぞ)は遊女見習いで、花魁に付いて身辺の
世話をします。少女の「禿(かむろ)」を卒業したのが
新造で、番頭新造ともいいました。

正蔵(彦六)のギャグ

番;「それでだめなら、またあたくしが狂言を書き替えます」
徳;「へええ、いよいよ二番目物(注:芝居の世話狂言。
濡れ場や殺し場はこちらの専売)だね。お前が夜中に
忍び込んで親父を絞め殺す」

*この師匠のは、ギャグにまで注釈がいるので、くたびれます。

蛇足・日本橋横山町

現・中央区日本橋横山町(一~三丁目)。袋物・
足袋・呉服・小間物などの卸問屋が軒を並べていました。

現在も、衣料問屋街としてにぎわっています。
かつては、横山町二丁目と三丁目の間で、
魚市が開かれました。

落語には「おせつ徳三郎」「お若伊之助」「地見屋」
「文七元結」など、多数に登場します。

特に、「文七元結」の主人公は、「山崎屋」と
まったく同じ横山町の鼈甲問屋の手代でした。

日本橋辺で大店が舞台の噺といえば、横山町を
出しておけば間違いはないという、
暗黙の了解があったのでしょう。

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