明治43年の讀賣新聞

2008.06.11

明治43年の讀賣新聞(INDEX)

●1月
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8日  9日 10日 11日 12日 13日 14日
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●2月
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29日
●3月
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●4月
1日  2日  3日  4日  5日  6日  7日
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●5月
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●6月
1日  2日  3日  4日  5日  6日  7日
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●7月
1日  2日  3日  4日  5日  6日  7日
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●8月
1日  2日  3日  4日  5日  6日  7日
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●9月
1日  2日  3日  4日  5日  6日  7日
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●10月
1日  2日  3日  4日  5日  6日  7日
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●11月
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●12月
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2008.01.25

讀賣1月25日(火)付

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2008.01.24

讀賣1月24日(月)付

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2008.01.23

讀賣1月23日(日)付

【ニュースヘッドライン】

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2008.01.22

讀賣1月22日(土)付

【ニュースヘッドライン】

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2008.01.21

讀賣1月21日(金)付

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2008.01.20

讀賣1月20日(木)付

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2008.01.19

讀賣1月19日(水)付

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2008.01.18

讀賣1月18日(火)付

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2008.01.17

讀賣1月17日(月)付

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2008.01.16

讀賣1月16日(日)付

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2008.01.15

讀賣1月15日(土)付

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2008.01.14

讀賣1月14日(金)付

【ニュースヘッドライン】









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2008.01.13

讀賣1月13日(木)付

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2008.01.12

讀賣1月12日(水)付

【ニュースヘッドライン】









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2008.01.11

讀賣1月11日(火)付

 伊藤博文の墓を韓国の使節団がお参りしていた。

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2008.01.10

讀賣1月10日(月)付

 1907(明治40)年に英国海軍がドレッドノート級戦艦を開発した。これにより、列強(世界の名だたる国々)は、大鑑巨砲主義に突っ走る。日本も例外ではなかった。

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2008.01.09

讀賣1月9日(日)付

 当時は、日露戦争が終結して5年後だったこと。いまだ、戦火の余燼はくすぶっていた。

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2008.01.08

讀賣1月8日(土)付

 今日は、桂太郎内閣のことを。

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2008.01.07

讀賣1月7日(金)付

 引き続き、横浜漫遊団の記事を。

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2008.01.06

讀賣1月6日(木)付

  「米国観光団」は、一夜明けると「米国漫遊団」に名が変わっていた。
 横浜に着いた由。鎌倉、日光、東京に分かれて行動するという。横浜から日光へは特別列車が走り、列車の入り口に「緑葉南天など生け花を飾って小アーチにして、列車内には五色のリボン造花で装飾するとか。これ、すべて鉄道院の手配だった。

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2008.01.05

讀賣1月5日(水)付

 「米国観光団と横浜」なる記事。
 米国観光団600名を乗せたクリーブランド号は、5日、神戸港を出て、6日には横浜港に着く予定だという。
 他紙では700名とするものもあるが、それにしても、600人もの外国人を収容できる旅館なりホテルなりはあったのだろうか。
 横浜市内の松飾りは、歓迎の敬意を表するために一行滞在中は取り払わないことになっている。横浜に到着したらすぐに鎌倉に行き、その後は東京に向かう。彼らは、かなり長い期間にわたって滞日していたようだ。

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2008.01.04

讀賣1月4日(火)付

 正月気分は3が日まで。4日になると、新聞もいよいよ普通に戻りだした。
 讀賣新聞の題字は、1日から3日までは横組みだったのだが、4日付からは縦組みになっていた。これが通常の状態のようである。今とは勝手が違っている。
 4面構成で、1面は全段(8段)中、下4段が広告で、上4段は連載など。「アラビヤンナイトの一節と我が古事記の俳優起原」(照山 佐々木安五郎)の第4回(元旦からの新連載)と、「決闘(チェーホフ作)」(小山内薫の訳)の第14の7。「よみうり抄」というコラムには、国木田独歩全集が博文館から刊行が決まった話題が載っている。
 2面は、政治、経済。
 3面は社会、文化、スポーツ(といっても、大相撲と野球くらいだが)、それと島崎藤村「家」の第4回。
 4面は「赤穂義士伝 奥田孫大夫」(一心亭辰雄講演)という講談の速記で、第3回。寄稿文で、今日は「陰暦廃止談」(天文台員 田代庄三郎)と、新刊の寸評。下4段は広告。
 これで全部だ。ちなみに、1行の文字数は18字で、65行だった。
 3面に「猛犬の脱走 驢馬気絶す」とあるから、なんだろうかと読んでみた。上野動物園には、蒙古犬、西蔵犬、露艦の犬(バルチック艦隊に乗艦していた大型犬で、例の海戦で沈む前に日本兵士が救出した)、ディンゴー(豪州の大型犬)がいるが、ディンゴーはかつて園を脱走したことがあった、その折にはおそらくロバも気絶したことだろう、という内容。ニュースでもなんでもない。動物園の犬の紹介をしたまでの暇ネタであった。
 その隣には、「乱暴兵士の抜刀 巡査を斬り損ね軍隊手帳を奪わる」。習志野騎兵隊の上等兵が、神田末広町の停留場で、満員電車に無理に飛び乗ろうとしたが、駆け付けた巡査ともみ合い、抜刀し、巡査の帽子を奪ったが、軍隊手帳を逆に奪われて、その後、応援に来た5巡査に取り押さえられた、という記事。これは、2日のニュースだった。
 2面には、法学博士・戸水寛人の談話で「進歩党の離合」が載っている。進歩党には、反官僚の犬養毅一派と、権力にすり寄る大石正巳一派の二大派閥でうごめいている、という内容だ。
 大石正巳は、万朝報にスキャンダルを書き立てられたことがある。黒岩涙香の有名な「弊風一斑蓄妾の実例」には、「農相大石正巳が一個の色道餓鬼たることは彼れが姦通事件の露見以来世人のあまねく知る所」とある。これなら、すり寄る政治家のイメージだったかもしれない。
 談話の主である戸水寛人(とみず・ひろんど)は、当時48歳。ヨーロッパに留学後、1894(明治27)年に帝国大学法科大学教授に就任。専攻はローマ法、民法学。この人物が名を残しているのは、日露戦争開戦時には富井政章らと「七博士意見書」を提出し、ロシアへの武力侵攻を強硬に主張したこと。それと、1905(明治38)年に、ポーツマス講和会議に反対する論文を書いて休職になっていたこと。これは「戸水事件」と呼ばれるもので、全学総出の抗議で06年1月に復職している。大学の自治を考える上で、重要な事件として語られているのだが、本人はすさまじいタカ派の論客であった。それが高じて、1908(明治41)年の第10回衆議院議員総選挙では、立憲政友会候補を破り当選してしまった。しかも、09年にはなんと立憲政友会に入党している。12月、ついに教授を辞職して政治活動に専念し始めた。戸水事件の同僚の奔走・努力の甲斐もないではないか。とまれ、1910年1月時点の戸水は、大学を辞めたばかり、プロ政治家なりたて、ということになる。そんな人物に、政敵・進歩党の内情を語らせているとは。明らかに中庸の意見ではない。讀賣新聞の編集意図は奈辺にありや。しかし、当時のヴィヴィッドな人物に政界を語らせるというセンスは、たぶんにジャーナリスティックではある。

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2008.01.02

讀賣1月3日(月)付

 そろそろ世間も動き出した。
 2日には、米国の太平洋艦隊「テネシー」と「ワシントン」が横浜港に到着するはずだったのだが、遅れて、マニラ艦隊の旗艦「チャールストン」が到着した。これはどういうわけかといえば、太平洋艦隊の司令官とマニラ艦隊の司令官の人事があったため、横浜で待ち合わせした、ということらしい。のんきなものである。米西戦争で、米国はフィリピンを領有した。米国の艦隊は、日本には意外に身近だったようである。
 「不景気楽観論」なる記事が載っている。土方久徴(ひじかた・ひさあきら)の談話である。土方は、1928(昭和3)年から7年間、つまり、日本経済がたいへん厳しい時期に、日本銀行の第12代総裁を務めた人物。この時は、日銀の営業局長の地位だった。それはともかく、昨年、つまり1909(明治42)年はたいへんな不景気だったようである。そこで、今年(1910年)の景気はいかなるものか、というのが、この小文の主旨となる。「本年半ばごろから回復のきざしが見えてくる」と、まるで易占家のようなことを言っている。この人の奥さん・まつは三野村利左衛門の娘だというから、結局は、三井の番頭のような存在だったのだろう。
 ひとつ、落語ファンなら知っておいても損にはならない記事が載っていた。「善孝の投身」というもの。洲崎弁天町の幇間・桜川善孝(42)が、元日に朝湯に行ったまま帰らず、夕方4時ごろ、海岸に死骸となって漂っていたのを発見された。原因は、最近、精神に異常をきたしていたから、という。志ん生の高座でも、「善孝」は知っておくべき幇間として語られている。元旦早々、雨もよいの中、縁起でもないことであった。

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讀賣1月2日(日)付

 当時の讀賣新聞は2日も出ていた。休刊日などという概念は、まだなかった。題字は、今と変わらず横組み。1面の3分の2は、山崎栄三郎本舗の「ゼム」なる経口薬の広告。「ゼムはいつも皆様をニコニコと丈夫で愉快に元気で幸福にならせますゆえ今すぐゼムを召し上がれ」というキャッチだから、仁丹、龍角散、大田胃散のような商品だったのだろう。何度も広告を打つことで名をはせていった、当時の定番商品だったようである。
 その広告の下には、「東京日本橋 白木屋呉服店」の恭賀新年のあいさつ広告。その後の「日本橋東急」であり、跡地にはコレド日本橋がそびえ建っている。さらに、「多木製肥所」の謹賀新年。「帝国人造肥料の元祖」で、兵庫県に工場を構えているという。この会社は、「多木化学株式会社」として今も続く老舗となっている。新聞広告には「創業以来二十六年間の恩愛に謝す」とある。ということは、創業は明治18年だから、1885年。内閣制度はじめ、現代に通じるシステムの多くができあがった年である。この会社も、近代明治の先兵だったのだろう。近代装備が整い出して、わずか26年しかたっていない。現在、われわれの生活にIT化がしみこんで10年ちょっとであるが、この間の変容に似ているのかもしれない。MO、DVD、MP3、OS、フラッシュメモリーなどの展開は、わずかこの10年の出来事にもかかわらず、われわれにはすでに必需品と化している。それらの個々の栄枯盛衰に、われわれの生活は振り回されっぱなしである。

 2日付の讀賣新聞である。
 6面に、高島呑象が「易占に現はれたる二大政党」と題して寄稿している。呑象とは、高島嘉右衛門のこと。高島暦の考案者である。この企画は、当時の最高の易占家が今年の政治を占う、という趣向である。現代の新聞では考えられない豪胆な試みである。今ならさしずめ、易占家ではなく政治評論家が受け持つのだろうが、その結果はあまり違わないのかもしれない。だが、高島の場合は、凡百の易占家とは趣が異なる。高島の本業は事業家である。高島自身は、ほとんどの事業で卦を立て、それに従って成功してきたといわれる。これまでも、政府の高官の中には、征韓論など政治の重要な事柄を高島に占ってもらう者が多かった。日清戦争、日露戦争の占いは国民新聞や報知新聞にも掲載されている。日本に亡命していた金玉均や朴泳孝も高島の世話になっており、門人として易も習っていたともいわれる。西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文の死期も卦で言い当てている。伊藤の時に立てた卦は艮が重なる艮為山で、重艮が安重根を指しているとして、暗殺者の人名も当てたとされているから、なんだかものすごい。新聞には時折、彼の易占が掲載され、そのたびに耳目を集めてきた。高島は、長らく権力の中枢に君臨していた伊藤博文(1910年の時点では故人)とは、かなりの昵懇だった。細木数子や江原啓之以上の社会的影響力があったと見てよいだろう。だから、この寄稿記事は、讀賣新聞としては他紙を圧倒するに足る大型企画だったのである。
  この時期の内閣は、桂太郎が首相である。長州閥の陸軍出身で、山県有朋の直系。彼は「ニコポン宰相」と呼ばれていた。命名者は東京朝日新聞の記者だったそうで、相手に対して、ニコっと笑って肩をポンとたたく心遣いを表しているのだそうだ。桂太郎は首相在職2886日で、現在でも不到の最長記録だ。桂は三度内閣を組んでいるが、1910年は第二次内閣だった。政友会が桂首相を後押しして、与党の立場でいた。この政友会に対し、「当今の時勢を余り政府に区々の心配を掛けぬ方がよろしい」と高島は説く。
 一方、野党の進歩党は、「この卦を得るようでは、進歩党は識見高しということができぬ。いかんとなれば女の貞である。女子の貞正なるがごとき態度を取るがよろしいという上に、さらにうかがいみるという語はその識見のはなはだ広からざるを証するのだからである」と言っている。わかったようなわからないような朦朧体である。
 結局、ニコポン宰相を支えるために、与党である政友会はあまりこまごまと要求やら請求やらはするな、野党の進歩党は広い視野で政治に向かえ、と言った程度の意味なのだろうか。
 当の桂太郎首相は、年末は葉山に滞在していたが、その後、三田小山町の自邸に戻り、1日午前9時には参内した。1日は珍しく夜来の雨だった。それだけに、今年はいつもと違う、と感じた人々は多かったようである。桂が参内している間、各界名士が次々と桂邸の名刺受に名刺を投げ入れる。それを記者たちがいちいち確認し、抜け目なく記事にしている。その記録がいま紙面でうかがえる、というわけだ。この年、投げ入れた最初の紳士は中村是公(よしこと)だった。後藤新平の子飼い、第2代の満鉄総裁である。1908年以来、3年目の総裁職だった。「どうか誰かと交代させていただきたい」という思いが、最初の投函者となったのだろうか。中村は1913年まで満鉄総裁を続ける。結果は異例の最長総裁となっていた。中村は夏目漱石の学生時代からの親友である。漱石は中村に招かれて渡満している。東京朝日新聞の社員だった漱石は、その体験を「満韓ところどころ」として連載、1909(明治42)年に発表。たいそう評判となった。当時は広尾にあったという中村邸(かつて羽澤ガーデンがあった3000坪の土地)からは、馬車で桂邸まではせ参じた。中村のフロックコート姿はトレードマークだった。三田小山町(港区三田1丁目辺)は、目と鼻の先である。

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2007.12.31

讀賣1月1日(土)付

 1910(明治43)年という年は、奇妙な年だといわれている。
 思いついた事柄を列挙してみよう。逗子開成、黒澤明、白樺、ハレー彗星、大逆事件、遠野物語、日韓併合、西田幾多郎、福来友吉、白瀬矗……。
 これだけでは、なにがなんだかわからないだろうが、まあ、いずれ氷解する。
 ともかく、ここでは、1910年という年を知るために、当時の讀賣新聞を毎日抜き読みしていこうと思う。もちろん、話題は、落語ばかりにはかぎらない。新聞の記事だから、とりあえず、なんでもある。これを1年間続けていけば、1910年がどれほど奇妙な年だったのかが、おのずと知れてくるのではないか。そういう試みである。かく記す筆者(私=古木優)自身が、もっとも知りたくて、うずうずわくわくしているのである。
 あらかじめことわっておくが、私が、その日付の讀賣新聞をざっと見渡して、おもしろそうな記事を紹介する、という方法をとっていく。新聞の記事には時間差がある。1月1日付に掲載された記事は、当たり前のことだが、12月31日以前の出来事が記されていることになる。これは、今も昔も変わらない。ここを頭の片隅に置いて、読んでいただければ、混乱することもなかろう。ついでにことわっておくが、新聞等の引用は、現代のわれわれに読みやすいように表記を改めている。
 
 元旦号である。
 10面(なぜか、新聞ではページといわず、面と呼んでいる)の構成だ。このころのの通常号は6面のようであるから、新年なのでご祝儀に気張っているのだ。これも、付録がたくさん入っている現代の新聞と同様の発想法なのだろうが、元旦1面での職人芸のようなお決まりのすっぱ抜きはない。1面はすべて広告。記事は2面からだ。2面の細かい記事の中には、「日露開戦説流布」というニューヨーク発の情報という怪しい記事も載っている。日露戦後から5年。余燼はくすぶっていたのであるが、これにはわけがある。日露戦後、ロシアから金を取れなかった日本は、東清鉄道における長春以南の南満州支線(のちの南満洲鉄道)の領有を巡り、ロシアとも米国とももめていた。米国のユニオン・パシフィック鉄道及びサザン・パシフィック鉄道の経営者であるエドワード・ヘンリー・ハリマンは、1905年にわざわざ渡日して、鉄道の領有を中立化させる案を出してきた。これが米国政府の意向でもあった。結局、1910年1月21日、日露はこの案を蹴ることになるのだが、この時点では、米国は日露双方にけしかけていた。だから、このような不穏な怪情報がニューヨークから乱れ飛び、はるばる日本にまで渡ってきたのだろう。
 まあ、そんなことはどうでもよい。
 この日の讀賣新聞で、私が注目するのは、二つ。
 ひとつは、新聞小説で、島崎藤村の「家」の連載が始まったこと。
 これは、藤村の実家のさまざまな人々を描いた、自伝のような作品だ。赤裸々に描く、自然主義のスタイルで書いている。「破戒」は売れに売れたのだが、「春」は地味でいまいちだった。そこで、知人からの借金返済やら兄弟の困窮やらなにやらといった世俗の芥が渦巻いて、「では、ここらで一発稼ごうか」と思い立った意欲作だった。東京朝日新聞は永井荷風の「冷笑」を、国民新聞は上田敏の「うづまき」を、それぞれ連載し始めた。どちらも、社会性の乏しいのんきな人物が、芸術至上主義的な生き方を披露しているのんきな作品である。だから、藤村の告白的な小説は、連載開始直後からセンセーショナルな風音をうならせていたため、対極的な競作となった。「破戒」のぼろもうけをもう一度、という思惑が、書き手にも新聞社にもたわんでいたのである。
 もうひとつの注目は、文学博士・福来友吉(ふくらい・ともきち)が寄稿していることだ。
 「新春の感と色彩」と題する随筆じみた文章。専門の心理学の立場から、30人の若い女性からアンケートをとって、新春をイメージする色を出してもらった。結果は、「若緑」「蜜柑色」「朱」だった、という他愛もない一文である。誰でも予想のつく結論だからこそ、だからなんなんだ、と突っ込みたくなるような凡作である。これが東京帝国大学助教授の手になる玉稿かと驚きあきれるが、ただ、この年のもっとも重要なキーパーソンが讀賣新聞の元旦号に寄稿している、ということが、いったいなにを物語っているのか。ここが気になる。ひっかかる。意味深長である。当代一流の少壮学者に寄稿を依頼し、婦女子の愛好する讀賣新聞としても関係をよしなに保っておきたいという、商業主義上の思惑だったのだろうか。その思惑のさらに裏側には、どのような意味を潜ませていたのだろうか。ここらへんの謎も、少しずつ明らかになっていけば、よろしいのだが。

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