落語のあらすじ 

2009.07.02

悋気の火の玉(りんきのひのたま) 落語

「悋気」は、ねたみ。「吝嗇」は、けち。よく出てきますね。

浅草は花川戸の、鼻緒問屋の主人。

堅物を画に描いたような人間で、
女房のほかは一人として女を知らなかったが、
ある時、付き合いで強引に吉原へ誘われ、
一度遊んでみると、遊びを知らない者の常ですっかりのめり込んでしまい、
とどのつまりは、
いい仲になった花魁を身請けして妾宅に囲うことになる。

本妻の方は、
このごろだんながひんぱんに外泊するから
どうもあやしいと気づいて調べてみると、
やっぱり根岸の方にオンナがいることがわかったから、さあ頭に血がのぼる。

ちくりちくりといやみを言い、
だんなが飯を食いたいといっても
「あたしのお給仕なんかじゃおいしくございますまい、ふん」
という調子でふてくされるので、
亭主の方も自分に責任があることはわかっていても、おもしろくない。

次第に本宅からの足が遠のき、
月の大半は根岸泊まりとなる。

そうなると、ますます収まらない本妻、
あの女さえ亡き者にしてしまえば、
と物騒にも、愛人を祈り殺すために「丑の時参り」を始めた。

例の藁人形に五寸釘を、恨みを込めて打ちつける。

その噂が根岸にも聞こえ、今度は愛人の花魁(おいらん)の方が頭にくる。

よーし、それなら見といでとばかり、こちらは六寸釘でカチーン。

それがまた知れると本妻が、負けじと七寸釘。

八寸、九寸と、エスカレートするうち、呪いが相殺して、
二人とも同日同時刻にぽっくり死んでしまった。

自業自得とはいえ、
ばかを見たのはだんなで、葬式を一ぺんに二つ出す羽目になり、
泣くに泣けない。

それからまもなく、また怪奇な噂が近所で立った。

鼻緒屋の本宅から恐ろしく大きな火の玉が上がって、
根岸の方角に猛スピードですっ飛んで行き、
根岸の方からも同じような火の玉が花川戸へまっしぐら。

ちょうど、中間の大音寺門前でこの二つがぶつかり、
火花を散らして死闘を演じる、というのだ。

これを聞くとだんな、
このままでは店の信用にかかわると、
番頭を連れて大音寺前まで出かけていく。

ちょうど時刻は丑三ツ時。

番頭と話しているうちに
根岸の方角から突然火の玉が上がったと思うと、
フンワリフンワリこちらへ飛んできて、
三べん回ると、ピタリと着地。

「いや、よく来てくれた。
いやね、おまえの気持ちもわかるが、
そこはおまえは苦労人なんだから、
なんとかうまく下手に出て……時に、
ちょっと煙草の火をつけさしとくれ」
と、火の玉の火を借りて、スパスパ。

まもなく、今度は花川戸の方から本妻の火の玉が、
ロケット弾のような猛スピードで飛んでくる。

「いや、待ってました。
いやね、こいつもわびているんで、おまえもなんとか穏便に
……時に、ちょいと煙草の火……」
「あたしの火じゃ、おいしくございますまい、ふん」

【うんちく】

これも文楽十八番

安永年間(1772~81)に、吉原の大見世の主人の
身に起きた実話をもとにしていると言われます。

原話は、天保4(1833)年刊、桜川慈悲成(さくらがわ
・じひなり、1762-1833)作の笑話本「延命養談数」
中の「火の玉」です。

現行は、この小咄のほとんどそのままの踏襲で、
オチも同じ。わずかに異なるのが、落語では、
オチの伏線になる本妻の,

「あたしのお給仕なんかじゃ…」

というセリフを加えるなど、前半のの筋に肉付け
してあるのと、原話では、幽霊鎮めに最初、道心坊
(乞食坊主)を頼んで効果がなく、その坊さんの
忠告で渋々だんな一人で出かけることくらいです。

この噺を十八番の一つとした八代目桂文楽は、
この仲介者を、麻布絶口木蓮寺の和尚にして
復活させていました。

文楽は、だんなが妾と本妻にそれぞれ白髪と黒髪を
一本ずつ抜かれ、往復するうちに丸坊主、という
マクラを振っていました。

その没後は先ごろ引退した三遊亭円楽がよく演じ、
現在でも高座に掛けられますが、音源は文楽のみです。

ケチと悋気はご親類?

悋と吝は同訓で、悋には吝嗇つまりケチと
嫉妬(悋気)の二重の意味があります。

また、一つの漢語でこの二つを同時に表す
「吝嫉(りんしつ)」という言葉もあるため、
ケチとヤキモチは裏腹の関係、ご親類という
解釈だったのでしょう。

こじつけめきますが、よく考えれば原点は
どちらも独占欲で、他人が得ていて
自分にない(または足りない)ものへの執着。

それが物質面にのみ集中し、内向すればケチに、
広く他人の金、愛情、地位などに向かえば嫉妬。

悋気は嫉妬の中で、当事者が女、対象が性欲と、
限定された現れなのでしょう。

焼き餅は遠火で焼け

「ヤキモチは遠火で焼けよ焼く人の、胸も焦がさず
味わいもよし、なんてえことを申します」
「疝気は男の苦しむところ、悋気は女の慎むところ」
というのは、落語の悋気噺のマクラの紋切り型です。

別にチンチン、岡チン、岡焼きなどともいいます。
「チンチン」の段階では、まだこんろの火が少し
熾きかけた程度ですが、焼き網が焦げだすと要注意、
という、なかなか味わい深いたとえです。

江戸で噂の花川戸

花川戸は、現在の台東区花川戸一、二丁目。
西は浅草、東は大川(隅田川)、北は山の宿で、
奥州街道が町を貫き、繁華街・浅草と接している
場所柄、古くから開けた土地でした。

芝居では、何と言っても花川戸助六と幡随長兵衛の
二大侠客の地元で名高いところです。

花川戸から北の山の宿(現在は花川戸に統合)に
かけて、戦前まではこの噺の通り、下駄や雪駄の
鼻緒問屋が軒を並べていました。

そういえば、舞台で助六が髭の意休の頭に下駄を
乗せますが、まさか、スポンサーの要請では……?。

大音寺って?

現・台東区竜泉一丁目で、浄土宗の正覚山大音寺。
向かいは、樋口一葉ゆかりの旧下谷竜泉寺町です。

箕輪の浄閑寺、新鳥越橋詰の西方寺とともに、
吉原の女郎の投げ込み寺でもありました。

「蔵前駕籠」にも登場しますが、大音寺門前は
夜は人通りが少なく、物取り強盗や辻斬りが出没した
物騒なところで、幽霊など、まだかわいい方です。

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2009.07.01

もぐら泥(もぐらどろ) 落語

明治も、初期を舞台にした噺。円生がやってました。

大晦日だというのに、
女房がむだ遣いしてしまい、やりくりに困っているだんな。

ぶつくさ言いながら帳簿をつけていると、
縁の下で、なにやらゴソゴソ。

いわゆる「もぐら」という泥棒で、
昼間のうち、物乞いに化けて偵察しておき、
夜になると、雨戸の敷居の下を掘りはじめる。

ところが、昼間印をつけた桟までの寸法が合わず、悪戦苦闘。

だんなが
「ええと、この金をこう融通してと、
ああ、もう少しなんだがなあ」
とこぼしていると、下でも
「もう少しなんだがなあ」

「わずかばかりで勘定が追っつかねえってのは、おもしろくねえなあ」
「わずかばかりで届かねえってのは、おもしろくねえなあ」

これが聞こえて、かみさんはなにも言っていないというので、
おかしいとヒョイと土間をのぞくと、
そこから手がにゅっと出ている。

ははあ、こいつは泥棒で、桟を弾いて入ろうってんだ
と気づいたから、
「とんでもねえ野郎だ。こっちが泥棒に入りたいくらいなんだ」

捕まえて警察に突き出し、
あわよくば褒賞金で穴埋めしようと考え、
そっと女房に細引きを持ってこさせると、
やにわに手をふん縛ってしまった。

泥棒、しまったと思ってももう遅く、
どんなに泣き落としをかけてもかんべんしてくれない。
おまけにもぐり込んできた犬に小便をかけられ、縁の下で泣きっ面に蜂。

そこへ通りかかったのが廓帰りの男で、
行きつけの女郎屋に三円の借金があるので
お履物を食わされた(追い出された)ところ。

おまけに兄貴分に、明日ぱっと遊ぶんだから、
それまでに五円都合しとけと命令されているので、
金でも落ちてないかと、下ばかり見て歩いている。

「おい、おい」
「ひえッ、誰だい? 脅かすねえ」
「大きな声出すな。下、下」

見ると、縁の下に誰か寝ている。

酔っぱらいかと思うと、
「ちょっとおまえ、しゃごんで(しゃがんで)くれねえか。
実は、オレは泥棒なんだ」

一杯おごるから、腹掛けの襷の中からがま口を出し、
その中のナイフをオレに持たしてくれ、と頼まれる。

「どこんとこだい? ……あ、あったあった。
こん中に入ってんのか。へえ、だいぶ景気がいいんだな」
「いくらもねえ。五十銭銀貨が六つ、二円札が二枚、
みんなで五円っかねえんだ」

五円と聞いて男、これはしめたと、がま口ごと持ってスタスタ。

「あッ、ちくしょう、泥棒ーう」

【うんちく】

古きよき時代とともに……

原話は不詳で、上方では「おごろもち盗人」といいます。
「おごろもち」は、関西でもぐらのこと。

昭和初期に五代目(俗に「デブの」)三遊亭円生が
よく演じ、六代目円生もたまにやりましたが、
速記が残るのは先代(六代目)蝶花楼馬楽くらい。

東西とも、現在ではあまり演じられません。

オチは皮肉がきいていて、なかなかいいので、
すたれるには惜しい噺なのですが。

「第十七捕虜収容所」泥は時代遅れ

こうした、軒下に穴を掘って侵入する手口を
文字通り「もぐら」と称しました。

もちろん「泥」にかぎらず、戦争映画などで
よく見る通り、捕虜収容所やムショからの脱走も、
穴を掘って鉄条網の向うに出る「もぐら」方式が
もっとも確実だったのですが……

特に都会で、軒下というものがほとんど姿を消し、、
穴を掘ろうにも土の地面そのものがなくなった現代、
こうしたクラシックな泥棒とともに、この噺も
姿を消す運命にあったのは、当然でしょう。

「ギザ」の使いみちは?

五十銭銀貨は、明治4年、表がドラゴン、裏に
太陽を刻印したものが大小二種類発行されたのが
最初です。俗に「旭日龍」と呼ばれました。

明治39年のリニューアルで表の龍が消え、通称は
「旭日」に。ついで大正11年、従来より小型で
銀の含有量の少ない「鳳凰」デザインのものに統一。

これは「ギザ」「イノシシ」とも呼ばれ、
昭和13年、戦時経済統制で銀貨が姿を消すまで、
事実上、流布した最高額の補助貨幣でした。

どんなに使いでがあったかを、大正11年前後の
商品価格で調べてみると、五十銭銀貨一枚で
釣りがきたものは……

寿司・並二人前、鰻重、天丼・並各一人前、
もりそば5~6枚、卵8個、トンカツ3皿、
二級酒4合、ビール大瓶一本、ゴールデンバット
十本入り8個、炭5キロ。湯銭大人一人十日分。

お履物って?

廓で、長く居続ける客を早く帰すため、
履物に灸をすえるまじないがあったことから、
女郎屋を追い立てられる、または出入り
差し止めになることを「お履物を食わされる」
といいました。

五代目古今亭志ん生は、単に「おはきもん」
と言っていました。

ギャグから

かみさんが、あとで泥棒仲間に仕返しで火でも
つけられたら困るから、逃がしてしまえとだんなに言う。

泥;(調子にのって)ほんとだいほんとだい。
  仲間が大勢いて無鉄砲だから、お宅に火を
  つけちゃ申し訳ねえ。
亭;つけるんならつけてみろい。どうせオレの
  家じゃねえや。

……ごもっともで。

             (六代目蝶花楼馬楽)

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2009.06.30

両手に花(りょうてにはな) 落語

「阿武松」「四宿の屁」と並ぶ、板橋が舞台の噺。

明治の初めごろ。

元旗本の二男坊で、野呂井照雄という独り身の若さま。
といっても、歳はすでに三十五。

金はあるし,
男っぷりもいいしで、女にもててしかたがない。

この世に悩みなどないようなものだが、
ある日、
いやに深刻な顔をして、
昔から屋敷に出入りしている道具屋の半六のところへやって来る。

照雄の心配事というのが、
相思相愛になった女が二人いるので、
どちらを女房にしたらよいか
という、人もうらやむぜいたくなもの。

一人は、柳橋の芸者で、小伊代。

美人でよく気のつくしっかり者だ。

もう一人は、同じ旗本の娘で、お留。

両親も親類も死に絶え、
婆やと二人でひっそり暮らしている。

こちらは武家娘を絵に描いたように、
おとなしい世間知らず。

家が隣だったので、
照雄が何の気なしに遊びにいった時に
デキてしまったもので、
女房にしなければならない義理があるわけ。

「いったいどちらを」
と相談されたが、半六にもいい知恵はない。

ただ、本妻なら素人娘の方がいいだろう
と半六のかみさんが言うので、
照雄もその気になって、
小伊代のところに縁切りに行くが、どうしても言い出せない。

今度はお留のところに行くが、これも同じこと。

すごすご帰ってきたものの、このままではすまないため、
決心の果てに小伊代の家に舞い戻り
「別れてくれ」と切り出すと、泣かれるかと思ったら
「ええ、わかりました。あたしは夫を生涯持たず、
山奥で機織り女になって寂しく暮らします」

こうはっきり言われては、またも切るに切れなくなる。

こうなると、いやでもお留の方と話をつけなければならなくなったが、
こちらはこちらで思い詰めた顔をするので、
下手をして死なれでもしたらと思うと、切るに切れない。

半六に
「それなら、いっそ板橋の縁切り榎(えのき)にでも出かけていって、
どっちかがあなたを嫌いになってくれるように願を掛けてごらんなさい」
と言われ、照雄はわらにもすがる思いで板橋までやってくる。

縁切り榎は焼けてしまい、今では切り株しかないが、
その株を削って飲めば効果があるというので、
もらって紙に包んでいると、そこへひょっこり現れたのが小伊代。
続いて、婆やと二人連れのお留も。

三人、鉢合わせ。

「ああ、ありがたや。お留は小伊代と縁を切り、
小伊代はお留と縁を切って、二人とも僕を亭主にしたいから、
切り株を削っていたんだね」

照雄が感激すると、二人がいっしょに
「いいえ。あんたと縁が切りたいから」

【うんちく】

三遊亭円朝の異色作

円朝の創作で、基になった原話などは不明です。

円朝の速記は、「縁切り榎」の演題で明治23年2月、
落語・講談の速記専門雑誌「花筐」に掲載されたもので、
当人がマクラで断っているとおり、
「人情咄しと落し咄しの間の児」のような作です。

ついで、一門の二代目小円朝(当時初代金馬)が、明治33年
4月、円朝の死の四カ月前に雑誌「百花園」に載せた
速記があり、「両手に花」の題はこのときのものです。

その後、同門の初代円右が改作したといわれますが、
昭和に入ってからはまったくすたれました。

縁切り榎はダジャレから?

縁切り榎は、現・板橋区本町、旧中仙道板橋宿
上宿の岩の坂にあり、現在は区の史跡として
路上に三代目が現存しています。

「縁切り」は正しくは「えんぎり」と読みます。

いつのころ植えられたのか分かりませんが、枯れて
空洞になった初代の残骸も保存されているとのこと。

元は榎の傍らに槻(つき)の木がいっしょに立っていて、
二つ合わせて「エ(ン)がツキる」というダジャレから
縁起が始まったという、冗談のような話が伝わっています。

退避した将軍家ご正室

実際、この榎の魔力は凄かったらしく、
池波正太郎風に言うと、ものの本に、

「 世に男女の悪縁を離絶せんとするもの、この樹に
祈りて験あらずということなし。故に嫁娶の時は
其名を忌みて、其樹下をよこぎらず」

とあります。夫婦円満を念じる善男善女には
逆に恐怖の的で、文化6(1809)年、将軍世子・敏次郎
(のちの十二代将軍・家慶)に嫁した楽(さざ)の宮の
行列は榎を避けて迂回。十四代将軍・家茂に降嫁した
和宮の行列が通った時は、榎にコモをかぶせたとか。

朝廷や幕府の権威も、木一本にかなわなかったわけです。

縁切り榎の利用法は、単に祈るばかりでなく、
縁切りさせたい男女の年齢を絵馬に書き、
榎の根元に奉納したり、樹皮を茶や酒に混ぜて
飲むと、いっそう効果が上がったといいます。

江戸の「オカルト榎三兄弟」

縁切り榎と反対に、千駄ヶ谷にはかつて
「縁結び榎」がありました。つまり、磁石の
マイナスに対してプラスというわけ。

この二本の榎を合わせて「二大榎」とも呼ばれました。

さらに、同じ板橋区赤塚八丁目の松月院には
「乳房榎」があり、こちらはやはり円朝作の
同名の長講怪談噺に登場します。

この榎には、乳房の形をしたこぶがついていて、
そこからにじみ出す甘い露を、女の乳房の腫れ物に
塗ればたちどころに治るという、霊験あらたかなもの。

ただし、物語では、絵師・菱川重信の妻・おきせが、
夫を殺害した弟子・磯貝浪江と密通。

乳の腫れ物に苦しむおきせが乳房榎の露を塗ると、
快癒どころか天罰てきめん、ますます痛みが
激しくなり、狂乱して浪江の刃にかかる、
という応報譚でした。

現在、松月院境内には、由来碑とともに四代目の
乳房榎が現存しています。

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2009.06.29

ライオン 落語

明治40年の上方噺「動物園」が原型。いまや新作とも言いがたい代物です。

失業中の男、ヤケになって、このところほとんど家にも帰らない。

いよいよ切羽詰まり、知人の家へ相談に行くと、
月に二百円(明治の終わりの!)稼げるいい商売があるから、やってみないか
と誘われた。

その職場というのが、今度新しくできた動物園。

「へえ、聞いてますが、世にも珍しい白いライオンがいるとかいう」
「実は、そのライオンになってもらいたい」

要するに、これはインチキ。

そんなライオンがいるわけがないから、
ぬいぐるみでこしらえたが、実によくできて、本物そっくり。

そこで、その中に人間を入れ、
ノッシノッシと歩かせて客をたぶらかし、
呼び物にしてたんまり稼ごうという魂胆。

「勤務」は朝の九時から午後四時までで、
うまくいけばボーナス三千円も出るし、
ライオンのエサ用に客が買った牛肉も、全部おまえのものになる、という。

もちろん、お上に聞こえれば手が後ろに回るから、
女房子供にも絶対に秘密。

こういうヤバい商売でなければ、そんな大金をくれるわけがない。

「ナニ、要領を覚えりゃ簡単さ。
ライオンてえのは、猛獣だから落ち着いて歩かなくちゃいけない。
胴を左右にひねって、少し右肩を下げて……」

ともかく、歩き方を教わると、
一か八かやってみる気になり、
開場当日の朝、行ってみると、満員の盛況。

この動物園はサーカスと同じ興行方式で、
あやしげな弁士が登場し
「ここにご覧に入れまするは、当館の呼び物、
世にも珍しい真っ白いライオン……」

口上を述べると、楽隊もろとも緞帳(どんちょう)が上がる。

ぬいぐるみの中の先生、次第に興奮してきて、
「月二百円ならいい商売だ、生涯ライオンで暮らそうか」
などと、勝手なことを思いながら、大熱演。

すると、また例の弁士が現れ、
「ええー、こちらにご覧に入れまするは、
東洋の猛獣の王・虎でござーい。
本来は黒と黄のブチでございますが、
ここにおります虎は珍しい黒白のブチでございます」

口上が終わると、「ウオウー」と、ものすごいうなり声。

「えー。今日は特別余興といたしまして、
ライオンと虎の戦いをご覧に入れます」

柵を取り外したから、驚いたのはライオン。

虎がノソリノソリと入ってくる。

「うわーッ、話がうますぎると思った」

これがこの世の見納めと、
「南無阿弥陀仏ッ」と唱えると、虎が耳元で
「心配するな。オレも二百円でやとわれた」

【うんちく】

上方の創作落語

大阪の二代目桂文之助(1859-1930)が、
明治40年ごろ「動物園」と題して自作自演。

ただし、元ネタは英国の笑話とか。
オリジナルでは、反対に主人公が虎になります。

どちらにせよ、着想が奇抜でオチも意外性に
富むので、古くから人気があり、東京でも
八代目春風亭柳枝、七代目雷門助六、六代目
春風亭柳橋などが好んで演じました。

現在でも主流は上方落語で、御大・桂米朝始め、
若手に至るまで、多くの落語家のレパートリーです。

東京では、七代目助六が「ライオンの見世物」、
八代目柳枝と柳橋はオリジナル通り「動物園」。
現・三遊亭金馬は「ライオン」で演じます。

動物園事始

動物の見世物は、江戸時代にはおもに両国橋西詰の
仮設見世物小屋で公開されました。

大型動物では、虎、豹、象、狒狒、鯨など
さまざまありましたが、「唐獅子」として
古くから存在を知られていたはずのライオンは
旧幕時代の記録はなく、明治以後の輸入です。

虎は江戸初期から公開され、慶安元(1848)年の
記録があります。

明治に入り、同4年に湯島聖堂で最初の
博覧会が催され、サンショウウオと亀を公開。

さらに翌々年、ウィーン万国博出品のため、
国内の珍獣が集められ、一般公開されました。

こうしたイベントのたびに、徐々に動物が増え、
博覧会場が手狭になった関係で、明治15年3月、
日本初の西洋式動物園が上野に開園。

ライオンの上野動物園への初輸入は明治35年。
その後、キリン、カバなども続々お目見えしました。

入場料は開園当初、大人一銭、子供五厘。

次いで明治36年4月に京都市動物園(岡崎公園内)、
大正4年元旦に大阪・天王寺動物園が開園されています。

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2009.06.28

淀五郎(よどごろう) 落語

実話が基だとか。「四段目」「中村仲蔵」と同様、忠臣蔵いじりの噺です。

ある年の暮れ。

「渋団」といわれた名人、市川団蔵を座頭に、
市村座で「仮名手本忠臣蔵」を上演することになった。

由良之助と師直の二役は座頭役で決まりだが、
塩屋判官役の沢村宗十郎が病気で倒れ、
代役を立てなければならない。

団蔵、鶴の一声で
「紀伊国屋(宗十郎)の弟子の淀五郎にさせねえ」

その淀五郎は芝居茶屋の息子で、
相中(あいちゅう)といわれる下回り役者。

判官の大役をさせられる身分ではない。
そこで急遽、当人を名題に抜擢する。

淀五郎、降って沸いた幸運に大張りきり。

いよいよ初日。

三段目のけんか場までなんとか無事に済み、
見せ場の四段目・判官切腹の場になった。

淀五郎扮する判官が浅黄の裃、
白の死装束で切腹の場へ。

本来なら判官が、小姓の力弥に
「由良之助は」
「いまだ参上つかまつりません」
「存生の対面せで、残念なと伝えよ」
と、悲壮なセリフと共に、九寸五分を腹に突き立て、
それを合図に花道からバタバタと、
団蔵扮する城代家老・大星由良之助が現れ、
舞台中央に来て「御前」「由良之助か、待ちかねた」
となるはずだが、団蔵
「なっちゃいないね。役者も長くやってると、
こういう下手くその相手をしなきゃならねえ。嫌だ嫌だ」
と、そのまま花道で動かない。

幕が閉まってから、恐る恐る団蔵に尋ねると
「あれじゃ、行きたいが行かれないね。あの腹の切り方はなんだい?」
「どういうふうに切りましたらよろしいんで?」
「そうさな、本当に切ってもらおうかね」
「死んじまいますが」
「下手な役者ァ、死んでもらった方がいい」

帰宅して工夫したが、翌日も同じ。

こうなると淀五郎、つくづく嫌になり
「そうだ、本当に腹ァ切れというんだから、切ってやろう。
その代わり、皮肉な三河屋(団蔵)も生かしちゃおかねえ」

物騒な決心をして、隣の中村座の前を通ると、
日ごろ世話になっている、これも当時名人の中村仲蔵の評判で持ちきり。

どうせ明日は死ぬ身だから、舞鶴屋(仲蔵)の親方にもあいさつしておこうと、
その足で仲蔵を訪ねる。

仲蔵、淀五郎の顔が真っ青で、
おまけに芝居がまだ二日目というのに
「明日から西の旅に出ます」
などと妙なことを言うので、問いただすとかくかくしかじか。
悪いところを直してやろうと、その場で切腹の型をやらせ、
「あたしが三河屋でも、これでは側に行かないよ」
と、苦笑。

おまえさんの判官は、認められたいという淀五郎自身の欲が出ていて、
五万三千石の大名の無念さが伝わらない、
また、判官が刀を腹に当てるとき、
膝頭から手を下ろすと品がないなど、
心、型の両面から親切にアドバイスし、励まして帰す。

翌日、三段目が済むと団蔵が驚いた。

「あの野郎。どうして急にああもよくなったか。
おらあ、本当に斬られるかと思った」

こうなると四段目が楽しみになる。
出になって、花道から見ると
「うーん、いい。こりゃあ、淀五郎だけの知恵じゃねえな。
あ、秀鶴(仲蔵)に聞いたか」

ツツツと近寄って
「御前」

淀五郎、花道を見るといないから、
今日はでてもこないかとがっかり。

それでも声がしたようだがと見回すと、傍に来ている。
「おお、待ちかねたァ」

【うんちく】

円生、正蔵、志ん生……百花繚乱1

原話は不詳で、実話を基にしたといわれます。
明治の四代目橘家円喬以来、基本的な演出は
変っていません。

オチがあるので、厳密には人情噺とは言えませんが
芸道ものの大ネタで、戦後では八代目林家正蔵、
六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生が競演。

円生では、仲蔵が淀五郎に注意する場面が、
微に入り細をうがって詳しいのが特色です。

正蔵の速記では省かれていますが、円生に倣って
判官の唇に青黛を塗り、瀕死の形相を出すようにと
注意を入れる演者が多くなっています。

また、サゲの後正蔵は「こりゃ本当に待ちかね
ました」とダメを押しましたが、円生は
ムダとして省いています。

円生、正蔵、志ん生……百花繚乱2

志ん生も円生のやり方とほぼ同じでしたが、
詳細すぎる説明をカットし、
人情噺のエキスを保ちながら、
軽快なテンポで十八番の一つとしました。

その下の世代でも、円楽、故・志ん朝、
小朝ら、ベテランから中堅、若手に至るまで
多くの演者に高座に掛けられています。

八代目正蔵の演出は、現在、門下の八光亭春輔が
もっとも忠実に継承しています。

イジワル団蔵は何代目?

「渋団」と噺の中で説明されますが、歴代の団蔵で
この異名で呼ばれたのは五代目(1788-1845)。

芸がいぶし銀のように渋かったことからで、
六代目三遊亭円生は「目黒団蔵」と説明していますが
これは四代目団蔵(1745-1808)で、「渋団」の先代です。

噺に登場する初代仲蔵と同時代なら、この団蔵は
四代目が正しいことになるのですが……。

淀五郎・実録

実在の澤村淀五郎は、初代から三代目まで数えられますが、
三代目は、前記四代目団蔵が没した一ヵ月後に襲名して
いるので、もし四代目団蔵、初代仲蔵と同時代なら
明和3(1766)年に襲名した二代目ということになります。

忠臣蔵評判記「古今いろは談林」の安永8(1779)年
森田座の項に「盬冶判官 澤村淀五郎 大星由良之助
 市川團蔵」という記録があります。

また、三代目までのどの淀五郎にも、芝居茶屋のせがれという
記録はなく、これはフィクションでしょう。

仲蔵は二人いた!

同題の芸道噺(アップ済)に主役で登場します。
詳しくはその項をご参照ください。

初代仲蔵の生涯について興味のある方には、
松井今朝子の小説「仲蔵狂乱」(講談社文庫)
にヴィヴィッドに描かれていて、お勧めです。

ところで、同時代に同名の中村仲蔵が
もう一人、大坂にいて、やはり初代を名乗って
いました。

この人は屋号・姫路屋で通称・白万。実事を
得意とし、寛政9(1797)年に没しています。

以来、江戸・東京と上方にそれぞれ四代目までの
仲蔵が並立し、最後の「大阪仲蔵」が死去したのは
明治14年でした。

現在、仲蔵の名跡は、勘五郎から襲名した
五代目が1990年に死去して以来、空き名跡に
なっています。

なお、「仮名手本忠臣蔵」については、「四段目」
「中村仲蔵」をご参照ください。

江戸三座

市村座、中村座、森田座の江戸三座は
天保の改革で、天保13(1842)年、猿若町
(現・台東区浅草六丁目)に強制移転。

町名も、その時同時に付けられました。

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2009.06.27

よいよい蕎麦(よいよいそば) 落語

「よいよい」とは、なんでしょうか。前の小円朝がよくやっていました。

江戸名物は、火事にけんかに中っ腹(ちゅうっぱら)
というが、中っ腹は気短なこと、なにかというと、悪態をつく。

田舎物の二人連れ、
一生一度の東京見物に来たのはいいが、
慣れないこととて、やることなすこと悪戦苦闘。

そば屋に入っても、生まれて初めてなので、食い方がわからない。

もりがくると、あんまり長いから、
これではハシを持ったまま天井までハシゴをかけて
上がらなければ食えないというので、一工夫。

片方がまず寝ころんで、相棒に食べさせ、
今度はもう一人が、という塩梅(あんばい)で、なかなかはかどらない。

そこへ威勢よく飛び込んできたのが、
言わずと知れた江戸っ子のお兄さん。

もりを注文すると、例によって粋につるつるっとたぐり出したが、
そばの中から釘が出てきたから、さあ収まらない。

「おい若い衆、そばの中に釘ィ入れて売るわけでもあるめえ。
危ねえじゃねえぁ。よく気ィつけろいっ。このヨイヨイめ」

謝罪の言葉も聞かばこそ、悪態をついて、
あっという間に出ていってしまった。

まるで暴風雨。

田舎者の二人、それを見てすっかり度肝を抜かれ、
あの食い方の早えの早くねえの、
あれはそば食いの大名人だんべえ
と、ひどく感心したが、
終わりのヨイヨイというのが、なんだか、よくわからない。

そこでそば屋の親父に尋ねるが、
親父もまさか親切ていねいに「翻訳」するわけにもいかず
「あれはその、近頃東京ではやっているほめ言葉で、
手前でものそばがいいというんで、よい、よいとほめたんです」
と、ゴマかす。

二人はすっかり真に受けて、
一度これを使ってみたいと思いながら、今度は芝居見物へ。

見ているうちに、いい場面になった。

東京の歌舞伎では、役者がいいと声をかけてほめると聞いたので、
ここぞとばかり
「ようよう、ええだぞ、ヨイヨイ」

怒ったのが贔屓の衆。

「天下の成田屋をつかめえて、ヨイヨイたあ何だ。
てめえたちの方がヨイヨイだ」
「ハァ、太郎作、喜べ。おらたちまでほめられた」

【うんちく】

二通りのヴァージョン

原話は不詳で、明治31年4月、「百花園」に掲載された
六代目桂文治の速記では、「江戸見物」と題しています。

これはオチは同じですが、後半途中から芝居噺仕立てになり、
そば屋の場面はありません。江戸っ子に突き当たられた後
そのまま芝居小屋での失敗談に移ります。

あらすじの「よいよい蕎麦」の方は、明治期では
初代三遊亭円右が得意にしたもので、、こちらが
本元だろうと思われます。

本来、丁寧に演じると、そば屋の場面の前に
食物と間違え、炭団を買ってかじる滑稽が付きます。

元祖「ボヤキ落語」で知られた、同時代の五代目
三升家小勝(1859-1939)や二代目三遊亭金馬を
経て、戦後は三代目三遊亭小円朝が時々演じました。

小円朝は速記は残っていますが(青蛙房刊
「三遊亭小円朝集」所収)音源はなく、初代円右の
SP復刻版だけが、今聴ける唯一の貴重な音源です。

小円朝以後の継承者は、今のところいない模様です。

親馬鹿ちゃんりん蕎麦屋の風鈴

けんどんそば切り(今でいうかけそば)が
一杯八文で売り出されたのは寛文4(1664)年のこと。

その後、貞享年間(1684~88)に蒸し蕎麦が流行。
同時に江戸市中に、多くのそば屋が出現。
頼まれれば、天秤の片担いで出前もしました。

別名二八蕎麦と呼ばれる、屋台のそば屋が現れたのは
享保年間(1716~36)といわれますが、それ以前、
貞享3(1686)年にすでに、

「温飩(うどん)、蕎麦切、其他何ニ寄らず、火を持あるき
商売仕り候儀、一切無用に仕るべく候」

というお触れが出ているので、かなり長い間、長屋の
食うや食わずの連中が、アルバイトに特に夜間、
怪しげな煮売り屋を屋台で営業していたわけです。

お上では「食品衛生法違反容疑」よりむしろ
火の元が危なくて仕方ないので、
禁止したということでしょう。

よいよいって?

元は、幼児のよちよち歩きを指しましたが、
のちに中風病み、マヌケ、酔っ払い、みすぼらしい服装の
人間などをののしる言葉になりました。

寛政年間(1789~1801)の戯作、洒落本などにこれらの例が
出揃っているので、およそこのあたりが起源なのでしょう。

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2009.06.26

夢の酒(ゆめのさけ) 落語

文楽が昭和十年ごろに磨き上げた、珠玉の噺。オチが有名ですね。

大黒屋の若だんなが夢を見てニタニタ。

かみさんが気になって起こし、どんな夢かしつこく聞くと
「おまえ、怒るといけないから」

怒らないならと約束して、
やっと聞き出した話が次の通り。

(夢の中で)若だんなが向島に用足しで出かけると、夕立に遭った。

さる家の軒下を借りて雨宿りをしていると、
女中が見つけ
「あら、ご新造さん、
あなたが終始お噂の、大黒屋の若だんながいらっしゃいましたよッ」
「そうかい」
と、泳ぐように出てきたのが、歳のころ二十五、六、色白のいい女。

「まあ、よくいらっしゃいました。
そこでは飛沫がかかります。どうぞこちらへ」

遠慮も果てず、中へ押し上げられ、
世話話をしているとお膳が出て酒が出る。

盃をさされたので
「家の親父は三度の飯より酒好きですが、あたしは一滴も頂けません」
と断っても、女は勧め上手。

「まんざら毒も入ってないんですから」
と言われると、ついその気でお銚子三本。

そのうちご新造が三味線で小唄に都々逸。

「これほど思うにもし添われずば、わたしゃ出雲へ暴れ込む~」

顔をじっと覗きこむ、そのあだっぽさに、頭がくらくら。

「まあ、どうしましょう。お竹や」
と、離れに床をとって介抱してくれる。
落ち着いたので礼を言うと
「今度はあたしの方が頭が痛くなりました。
いいえ、かまわないんですよ。あなたの裾の方へ入らしていただければ」
と、燃えるような長襦袢の女がスーッと……というところで、
かみさん、嫉妬に狂い、金きり声で泣き出した。

聞きつけたおやじが
「昼日中から何てざまだ。奉公人の手前面目ない」
と若夫婦をしかると、かみさんが泣きながら訴える。

「ふん、ふん、……こりゃ、お花の怒るのももっともだ。
せがれッ。なんてえ、そうおまえはふしだらな男」
と、カンカン。

「お父つぁん、冗談言っちゃいけません。これは夢の話です」
「え、なに、夢? なんてこったい。
夢ならそうおまえ、泣いて騒ぐこともないだろう」

おやじがあきれると、
かみさん、日ごろからそうしたいと思っているから夢に出るんです
と、引き下がらない。
挙げ句、親父に、その向島の家に行って
「なぜ、せがれにふしだらなまねをした」
と、女に文句を言ってきてくれ、と頼む。

淡島さまの上の句を詠みあげて寝れば、
人の夢の中に入れるというからと譲らず、
その場で親父は寝かされてしまった。

(夢で)「ご新造さーん、大黒屋のだんながお見えですよ」

女が出てきて
「あらまあ、どうぞお上がりを」
「せがれが先刻はお世話に」
というわけで、上がり込む。

「ばかだね。お茶を持ってくるやつがありますか。
さっき若だんなが『親父は三度の飯より酒が好きだ』
と、おっしゃったじゃないか。早く燗をつけて……
え? 火を落として……早くおこして持っといで。
じきにお燗がつきますから、どうぞご辛抱なすって。
その間、冷酒で召し上がったら」
「いや、冷酒はあたし、いただきません。冷酒でしくじりましてな。
へへ、お燗はまだでしょうか」
と言っているところで、起こされた。

「うーん、惜しいことをしたな」
「お小言をおっしゃろうというところを、
お起こし申しましたか?」
「いや、ヒヤでもよかった」

【うんちく】

改作の改作の改作

古くからあった人情噺「雪の瀬川」(松葉屋瀬川)が、
元の「橋場の雪」(別題「夢の瀬川」)として落し噺化され、
それを初代(「鼻の」)三遊亭円遊が現行のサゲに直し、
「隅田(すだ)の夕立」「夢の後家」の二通りに改作。
後者は、明治24年12月、「百花園」掲載の速記があります。

このうち「隅田の夕立」の方は円遊が、夢の舞台を
向島の雪から大川の雨に代え、より笑いを多く
したものと見られます。

元の「橋場の雪」は三代目柳家小さんの、明治29年の
速記がありますが、円遊の時点で「改作の改作の改作」。
いや、ややっこしいかぎりです。

決定版「文楽十八番」

で、もう一つの「改作の改作の改作」の「夢の後家」の方を、
八代目桂文楽が昭和10年前後に手を加え、
「夢の酒」として磨き上げました。

つまり、文楽で「改作の改作の改作の改作」。

文楽はそれまで、「夢の瀬川(橋場の雪)」を演っていましたが、
自らのオリジナルで得意の女の色気を十分に出し、
情緒あふれる名品に仕立て、終生の十八番としました。

なお、円遊は導入部に「権助提灯」を短くしたものを
入れましたが、文楽はそれをカットしています。

サゲの部分の原話は中国・明代の笑話集「笑府」中の
「好飲」で、本邦では安永3(1774)年刊「落噺笑種蒔」
中の「上酒」、同5年刊の「夕涼新話集」中の「夢の有合」に
翻案されました。どちらも、オチは現行通りのものです。

また、夢を女房が嫉妬するくだりは、安永2年刊
「仕形噺口拍子」中の「ゆめ」に原型があります。

「夢の後家」と「橋場の雪」(夢の瀬川)

「夢の後家」の方は、「夢の酒」と大筋は変りませんが、
夢で女に会うのが大磯の海水浴場、それから汽車で横須賀から
横浜を見物し、東京に戻って女の家で一杯、と、いかにも
円遊らしい明治新風俗を織り込んだ設定です。

次に、少し長くなりますが、「橋場の雪」のあらすじを。

若だんなが雪見酒をやっているうちに眠りこけ、
夢の中で幇間の一八(次郎八)が、瀬川花魁が向島の
料亭で呼んでいるというので、橋場の渡しまで行くと
雪に降られ、傘をさしかけてくれたのがあだな年増。

結局瀬川に逢えず、小僧の定吉(捨松)に船を漕がせて
引き返し、その女のところでしっぽりというところで
起こされ、女房とおやじに詰問される。

夢と釈明して許されるが、定吉に肩をたたかせているうち
二人ともまた寝てしまう。女中が「若だんなはまた女の
ところへ」とご注進すると、かみさん「ここで寝ている
じゃないか」「でも、定どんが船を漕いでます」とサゲ。

三代目小さんは、主人公をだんなで演じました。
上方では「夢の悋気」と題し、あらすじ、オチは同じです。

本家本元「雪の瀬川」

原話、作者は不明です。

「明烏」の主人公よろしく、引きこもりで本ばかり読んでいる
若だんなの善次郎。番頭が心配して、気を利かせて無理に吉原へ
連れ出し、金に糸目をつけず、今全盛の瀬川花魁を取り持ちます。

ところが薬が効きすぎ、若だんなはたちまちぐずぐずになって
あっという間に八百両の金を蕩尽。結局勘当の身に。

世をはかなんで永代橋から身投げしようとするのを、
元奉公人で屑屋の忠蔵夫婦に助けられ、そのまま忠蔵の
長屋に居候となります。

落剥しても、瀬川のことが片時も忘れられない善次郎、
恋文と金の無心に吉原まで使いをやると、ちょうど花魁も
善次郎に恋煩いで寝たきり。そこへ手紙が来たので
瀬川は狂喜して、病もあっという間に消し飛びます。

ある夜、瀬川はとうとう廓を抜け、しんしんと雪の降る夜、
恋しい若だんなのもとへ……。結局、それほど好き
あっているのならと、親元に噺をして身請けし、
めでたく善次郎の勘当も解けて晴れて夫婦に、
というハッピーエンドです。

夢の場面はなく、こちらは、三遊本流の本格の人情噺。
別題「松葉屋瀬川」で、六代目三遊亭円生が、
ノーカットでしっとり演じました。

淡島さまって?

淡島明神社は、江戸では現・台東区浅草二丁目の
浅草寺境内(1945年、3月10日の大空襲で焼失)と、
現・世田谷区代沢三丁目、森厳寺境内にある
「北沢の淡島さま」の二社ありましたが、
夢に関連づけられるのは後者です。

淡島の本社は紀州・加太神社で、北沢の淡島は
婦人病と腰痛にご利益があるとされます。

寺伝によれば、開山(慶長12=1607年)の清誉上人が
腰痛に悩み、淡島明神に願を掛けたところ、霊夢に
よって完治。その威徳を感じ、この地に勧請したとやら。

噺中の「淡島さまの上の句」うんぬんは不詳ですが、
淡島の霊験を説く門付けの行者が御神籤による
占いをしたことに関係するかもしれません。

また、淡島は縁結びの神でもあるので、
男女の夢を結ぶという意味合いも想像できます。

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2009.06.25

やんま久次(やんまきゅうじ) 落語

円朝門下の三遊一朝から彦六へ。しばしの空白期を経て、雲助が復活。

番町御廐(おんまや)谷の旗本の二男・青木久次郎。

兄貴がいるので家督は継げず、
他家に養子にも行けずに無為の日々を送るうち、
やけになって道楽に身を持ち崩し、
家を飛び出して本所辺の博打場でトグロを巻いている。

背中一面に大やんまのトンボの刺青を彫ったので、
人呼んで「やんま久次」。

今日も博打で負けてすってんてんになり、
悪友の入れ知恵で女物の着物、
尻をはしょって手拭いで頬かぶりというひどいなりで、
番町の屋敷へ金をせびりにやってくる。

例によって用心の伴内に悪態をつき、
凶状持ちになったので旅に出なくてはならないから、
旅費をよこせと無理難題。

どっかと座敷に座り込み、酒を持ってこいとどなり散らす。

ちょうど来合わせたのが、
兄弟に幼いころ剣術を教えた、浜町で道場を営む大竹大助という先生。

久次がお錠口でどなっているのを聞きつけ、
家名にきずがつくから、今日という今日は、あ奴に切腹させるよう、
兄の久之進に勧める。

老母がかわいがっているので、
自分の手に掛けることもできず、
今まではつい金をやって追い払っていた兄貴も、
もうこれまでと決心し、有無を言わせず弟の首をつかんで引きずり、
一間にほうり込むと、そこには鬼のような顔の先生。

「これ久次郎。きさまのようなやくざ者を生けおいては、当家の名折れになる。
きさまも武士の子、ここにおいて潔く腹を切れ」

さすがの久次も青くなり、泣いて詫びるが大助は許さない。

そこへ母親が現れ、今度だけはと命乞いをしたので、やっと
「老母の手前今回はさし許すが、
二度とゆすりに来るようなことがあれば、必ずその首打ち落とす」
と、釘をさされて放免された。

いっしょに帰る道すがら、
大助は、実はさっきのはきさまを改心させるための芝居だったと明かし、
三両手渡して、これで身支度を整え、
どこになりと侍奉公して、必ず老母を安心させるように、とさとす。

久次も泣いて、きっと真人間になると誓ったので、
大助は安心して別れていく。

その後ろ姿に
「おめっちの道楽といやあ、金魚の子をふやかしたり、
朝顔にどぶ泥をひっかけたり、三道楽(さんどら)煩悩のどれ一つ、
てめえは楽しんだことはあるめえ。
俺の屋敷に俺が行くのに、他人のてめえの世話にはならねえ。
大べらぼうめェ!!」

【うんちく】

江戸の創作落語

伝・初代古今亭志ん生(1809-56)作。元題は「大べらぼう」。

名人・三遊亭円朝が、自作の長講人情噺「緑林門松竹」
(みどりのはやし・かどのまつたけ)の原話となった芝居噺
「下谷五人盗賊」中の「またかのお関」のくだりに、
やんま久次郎を端役で登場させていますが、五人という
人数合わせのための作為で、筋との関連はなく、のちに
削除しています。

円朝門下の三遊一朝老人から、八代目林家正蔵に直伝され、
戦後は正蔵の一手専売でした。

その没(1982)後は手掛ける者がありませんでしたが、95年、
現・五街道雲助が復活させました。

彦六懐古談

この噺、元々長編人情噺で、この続きがあったと
思われますが、不明です。

「このはなしを一朝おじいさんがやって、圓朝師匠に
ほめられたそうです。『私はおまえみたいに、ゆすりは
うまくやれないよ』といって……(中略)最後は『おお
べらぼうめ~』といって、昔は寄席の花道へ引っ込んだ
ものです。『湯屋番』でこの手を遣った人がいましたね。
『おまえさんみたいな人はいらないから出ていっとくれ』
『そうかい、おれもこんなおもしろくねえところには
いたかねえ』といって、花道を引き上げるんです」

                (八代目林家正蔵談)

「やんま」は遊び人のしるし

やんまは「馬大頭」と書きます。国語力鑑定試験にでも
出そうな難字訓です。

やんまには隠語で「女郎」の意味があり、
女郎買いを「やんまい」「んやまい」などとも称しました。

久次郎のやんまの刺青は、それを踏まえた、自嘲の
意味合いもあったのでしょう。

怪人「べらぼう」

江戸っ子のタンカで連発される「ベラボーメ」。

ベラボーは、「馬鹿野郎」と「無粋者(野暮天)」の
両方を兼ねた言葉です。

万治から寛文年間(1658~72)にかけて、
江戸や大坂で、全身真っ黒けの怪人が見世物に出され、
大評判になりましたが、それを「へらぼう」「べらぼう」
と呼んだことが始まりとか。

言い逃れ、インチキのことを「へらを遣う」と呼んだので
その意味も含んでいるのでしょう。

三道楽煩悩って?

飲む、打つ、買うの三道楽。
「さんどら」の「どら」は「のら」(怠け者)からの
転訛です。「ドラ息子」の語源でもあります。

お錠口って?

武家屋敷の表と奥を仕切る出入口です。
杉戸を立て、門限以後は錠を下ろすのが慣わしでした。

御厩谷って?

現在の東京都千代田区三番町、
大妻学院前バス亭付近の坂下をいいました。

近接の現・靖国神社北側一帯が
幕府の騎射馬場御用地であったことに因みます。

付近はすべて旗本屋敷でしたが、
「青木」という家名はむろん架空です。

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2009.06.24

山崎屋(やまざきや) 落語

色に狂ったご大家の若だんな。これはもう、円生と彦六で有名な噺です。

日本橋横山町の鼈甲(べっこう)問屋、
山崎屋の若だんな、徳三郎は大変な道楽者。

吉原の花魁(おいらん)に入れ揚げて
金を湯水のように使うので、堅い一方のおやじは頭を抱え、勘当寸前。

そんなある日、
徳三郎が、番頭の佐兵衛に百両融通してくれと頼む。

あきれて断ると、若だんなは
「親父の金を筆の先でちょいちょいとごまかしてまわしてくれりゃあいい。
何もおまえ、初めてゴマかす金じゃなし」
と、気になる物言いをするので、番頭も意地になる。

これでも十の歳からご奉公して、
塵っ端ひとつ自侭にしたことはない、と憤慨。

すると若だんな、ニヤリと笑い、
この間、湯屋に行く途中で、丸髷に襟付きのお召しという粋な女を見かけ、
後をつけると二階建ての四軒長屋の一番奥……じわりじわり。

女を囲っていることを見破られた番頭、
実はひそかに花魁の心底を探らせ、
商家のお内儀に直しても恥ずかしくない実のある女ということは承知なので
「若だんな、あなた、花魁をおかみさんにする気がおありですか?」
「そりゃ、したいのはやまやまだが、おやじが粋をしているうちはダメだよ」

そこで番頭、
自分に策があるからと、
若だんなに、半年ほどは辛抱して堅くしているようにと言い、
花魁の親元身請けで請けだし、出入りの鳶頭に預け、
花魁言葉の矯正と、針仕事を鳶頭のかみさんに仕込んでもらうことにした。

大晦日、小梅のお屋敷に掛取りに行くのは佐兵衛の担当だが、
「実は手が放せません。申し訳ありませんが、若だんなに」
と佐兵衛が言うとだんな、あんなのに二百両の大金を持たせたら、
すぐ使っちまうと渋る。

「そこが試しで、まだ道楽を始めるようでは末の見込みがないと思し召し、
すっぱりとご勘当なさいまし」
と、はっきり言われてだんな、困りはてる。

しかたがないと、「徳」と言いも果てず、
若だんな、脱兎のごとく飛び出した。

掛け金を帰りに鳶頭に預け、家に帰ると
「ない。落としました」

だんな、使い込んだと思いカンカン。

打ち合わせ通りに、鳶頭が駆け込んできて、
若だんなが忘れたからと金を届ける。

番頭が、だんな自ら鳶頭に礼に行くべきだと進言。

これも計画通りで、花魁をだんなに見せ、
屋敷奉公していたかみさんの妹という触れ込みで、
持参金が千両ほどあるが、どこかに縁づかせたいと水を向ければ、
欲にかられてだんなは必ずせがれの嫁にと言い出すに違いない、という筋書き。

その通りまんまとだまされただんな、
一目で花魁が気に入り、かくしてめでたく祝言も整った。

だんなは徳三郎に家督を譲り、根岸に隠居。

ある日、今は本名のお時に帰った花魁が根岸を訪ねる。

「ところで、おまえのお勤めしていた、お大名はどこだい?」
「あの、わちき……わたくし、北国でござんす」
「北国ってえと、加賀さまかい? さだめしお女中も大勢いるだろうね」
「三千人でござんす」
「へえ、恐れいったな。それで、参勤交代のときは道中するのかい?」
「夕方から出まして、武蔵屋ィ行って、伊勢屋、大和、長門、長崎」
「ちょいちょい、ちょいお待ち。そんなに歩くのは大変だ。
おまえにゃ、何か憑きものがしているな。諸国を歩くのが六十六部。
足の早いのが天狗だ。おまえにゃ、六部に天狗がついたな」
「いえ、三分で新造が付きんした」

【うんちく】

原話は家庭内暴力?

安永4(1775)年刊の漢文体笑話本「善謔随訳」中の
小咄が原話です。この原典には、「反魂香」
「泣き塩」(アップ済)の原話もありました。

これは、さる大坂の大きな米問屋の若だんなが、
家庭内暴力で毎日、お膳をひっくり返して大暴れ。

心配した番頭が意見すると(以下、江戸語に翻訳)、

「ウチは米問屋で、米なら吐いて捨てるほどあるってえのに
なんでしみったれやがって、毎日粟飯なんぞ食わしゃあがるんだ。
こんちくしょうめ」

そこで番頭がなだめていわく、

「ねえ若だんな、新町の廓の某って男をご存知でござんしょ?
その人はね、大きな女郎屋のあるじで、抱えの女はそれこそ、
天下の美女・名妓が星の数ほどいまさあね。でもね、その人は
毎晩、お手手で●●して満足していなさるんですよ」

分かったような分からんような、どうしてこれが「原話」
になるのか今ひとつ飲み込めない話ですが、案外こっちの方が
ブラック師匠向きかも知れませんな。

円生、正蔵から…アノ人へ

廓噺の名手・初代柳家小せんが明治末から大正期に得意にし、
明治43年7月、「文藝倶楽部」に寄せた速記が残ります。

このとき小せんは若干27歳で、同年4月、真打ち昇進直後。
今、速記を読んでも、その天才ぶりが偲ばれます。

五代目から六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵に継承され、
円生、正蔵が戦後の双璧でしたが、意外に演者は多く、
三代目三遊亭金馬、その孫弟子の故・桂文朝、現・談志も
持ちネタにしています。 

円生、正蔵の演出はさほど変わりませんが、後者では
番頭の妾の描写などが、古風で詳しいのが特長です。

オチも分かりにくく、現代では入念な説明がいるので、
はやる噺ではないはずですが、なぜか人気が高いようで、
ベテランの林家小のぶ、中堅の古今亭駿菊(ともにCDあり)、
桃月庵白酒はともかく、アノ二代目快楽亭ブラックまで
演っているのはお笑いです。

察するに、噺の古臭さ、オチの欠点を補って余りある、
起伏に富んだストーリー展開と、番頭のキャラクターの
ユニークさが、演者の挑戦意欲をを駆り立てるのでしょう。

北国って?

「ほっこく」と読みます。

吉原の異称で、江戸の北にあったから。
通人が気取ってそう呼んだことから、広まりました。

これに対して品川は「南」と呼ばれましたが、
なぜか「南国」とはいいませんでした。
これは品川が公許でなく、あくまで宿場で、岡場所の
四宿の一に過ぎないという、差別によるものでしょう。

なお、噺中の「道中」は花魁道中のこと。詳しくは
「千早振る」をご参照ください。

小梅のお屋敷

若だんなが掛取りに行く先で、おそらく向島・小梅村
(現・墨田区向島一丁目)の水戸藩下屋敷でしょう。

ただ、掘割を挟んで南側一帯には松平越前守(越前
福井三十二万石)、細川能登守(肥後新田三万五千石)
ほか、諸大名の下屋敷が並んでいたので、それらの
どれかかも知れません。

どこであっても、日本橋の大きな鼈甲問屋ですから、
女手が多い大名の下屋敷では引く手あまた、
得意先には事欠かなかったでしょう。

小梅村は日本橋から一里あまり。風光明媚な郊外の
行楽地として知られ、江戸の文人・墨客に愛されました。

村内を水戸街道が通り、水戸徳川家が下屋敷を
拝領したのも、本国から一本道という絶好の
ロケーションにあったからです。

なお、水戸の中屋敷は根津権現社の南側一帯
(現在の東大グラウンドと農学部の敷地)にありました。
小石川の上屋敷については「孝行糖」参照。

親許身請(おやもとみうけ)って?

親が身請けする形で、請け代を浮かせることです。

三分で新造がつきんした

オチの文句ですが、これはマクラで仕込まないと
到底、現在では分かりません。

宝暦(1751~64)以後、太夫が姿を消したので
遊女の位は①呼び出し②昼三③付け廻しの順になりました。

以上の三階級を花魁(おいらん)といい、女郎界の三役と
いったところ。「三分」は関脇にあたる「昼三」の
揚げ代ですが、この値段ではただ呼ぶだけ。

新造(しんぞ)は遊女見習いで、花魁に付いて身辺の
世話をします。少女の「禿(かむろ)」を卒業したのが
新造で、番頭新造ともいいました。

正蔵(彦六)のギャグ

番;「それでだめなら、またあたくしが狂言を書き替えます」
徳;「へええ、いよいよ二番目物(注:芝居の世話狂言。
濡れ場や殺し場はこちらの専売)だね。お前が夜中に
忍び込んで親父を絞め殺す」

*この師匠のは、ギャグにまで注釈がいるので、くたびれます。

蛇足・日本橋横山町

現・中央区日本橋横山町(一~三丁目)。袋物・
足袋・呉服・小間物などの卸問屋が軒を並べていました。

現在も、衣料問屋街としてにぎわっています。
かつては、横山町二丁目と三丁目の間で、
魚市が開かれました。

落語には「おせつ徳三郎」「お若伊之助」「地見屋」
「文七元結」など、多数に登場します。

特に、「文七元結」の主人公は、「山崎屋」と
まったく同じ横山町の鼈甲問屋の手代でした。

日本橋辺で大店が舞台の噺といえば、横山町を
出しておけば間違いはないという、
暗黙の了解があったのでしょう。

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2009.06.23

山岡角兵衛(やまおかかくべえ) 落語

角兵衛獅子は軽業芸を売る商売。これは忠臣蔵物の講談を基にしたもの。

浅野内匠頭の松の廊下刃傷事件の後、
赤穂の浪士たちはあらゆる辛苦に耐え、
ある者は町人に化けて吉良邸のようすを探り、
仇討ちの機会を狙っていたが、
その一人の山岡角兵衛がついに志を得ないまま病死した。

その妻のお縫は、女ながらも気丈な者。

なんとか夫に代わって主君の仇を報じたいと、
吉良上野介のところに妾奉公に入り、
スパイとなって、後三日で上野介が米沢に出発することを突き止め、
すわ一大事とこのことを大石内蔵助に報告した。

そこで元禄十五年十二月十四日、
茶会で吉良が在宅しているこの日を最後の機会と、
いよいよ四十七士は討ち入りをかける。

その夜、
今井流の達人、美濃部五左衛門は、長屋で寝ていたが、
気配に気づき、ひそかかに主君上野介を救出しようと、
女に化けて修羅場と化した屋敷に入り込むが、
武林唯七に見とがめられて
合言葉を「一六」と掛けられ、
これはきっと賽の目だと勘づいたものの、
あわてていて「四五一、三二六」と返事をしてしまう。

見破られて、かくなる上は破れかぶれと、
獅子奮迅に暴れまわるうち、お縫が薙刀を持って駆けつけ、
五左衛門に斬りかかる。

しかし、そこは女、
逆に斬り下ろされて縁側からまっさかさま。

あわや、
と見えたその時、お縫はクルリと一回転して庭にすくっと立ち、
横に払った薙刀で五左衛門の足を払い、見事に仕留める。

これを見た大石が
「えらい。よく落ちながらひっくり返った。今宵の働きはお縫が一番」
とほめたが、それもそのはず。

お縫は、角兵衛の女房。

【うんちく】

忠臣蔵講談の翻案

原話は不詳で、忠臣蔵ものの講談を基にしたものです。

古い速記では、明治32年10月、「志士の打入り」と題した
二代目三遊亭小円朝(当時初代金馬)のものが残ります。

その没後、子息の三代目小円朝、二代目(先代)円歌が
高座に掛けましたが、二人の没後、後継者はありません。
音源は、唯一円歌のものがCD化されています。

三代目小円朝によると、二代目のは、本来は松の廊下の
くだりから始まり、討入りまでの描写が綿密で長かったとか。

明治32年の速記を見ると、脇筋で、親孝行の将軍・綱吉が、
実母の桂昌院に従一位の位階をもらって喜ぶくだりが長く、
その後、刃傷から討入りまでの説明はあっさり流しています。

サゲの「角兵衛」は角兵衛獅子で、
「ひっくり返った」は角兵衛のアクロバットから。

もう、説明なしには到底分からなくなりましたが、
角兵衛獅子については、「角兵衛の婚礼」をご参照ください。

主人同様、不運な吉良邸 1

吉良上野介屋敷は、「北本所一、二の橋通り」
「本所一ッ目」「本所無縁寺うしろ」「本所
台所町横町」などと記録にあります。

俗にいう「本所松坂町二丁目」は、
吉良邸が没収され、町家になってからの
名称なので誤りです。

現在の墨田区両国三丁目、両国小学校の
道をはさんで北向かいになります。

路地の奥にわずかに上野稲荷として
痕跡を留めていましたが、上野(こうずけ)の
二字が嫌われ、同音の「河濯」と碑に刻まれました。

主人同様、不運な吉良邸 2

明治5年に松坂町二丁目が拡張されたとき、
その五番地に編入されましたが、長い間
買い手がつかなかったといいます。

討入り事件当時は東西三十間、南北二十間、
総建坪五百坪、敷地二千坪。

上野介が本所に屋敷替えを命ぜられ、丸の内
呉服橋内から、この新開地に移ってきたのは
討入り三ヶ月前の元禄15年9月2日(1702.10.22)。

なお、事件当日の12月14日は、新暦では1703年
1月30日・火曜日で、普通言われている1702年は誤りです。
旧暦と新暦のずれを考慮に入れないためのミスですね。

当日の即死者十六人中に、
むろん美濃部某の名はありません。

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