武江年表

2017.12.08

武江年表 文禄元~4年(1591~1594)

武江年表

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文禄元年[一五九二]壬辰 十二月八日改元

御城の西北の地、大御番組衆宅地を給はる。六組に分ちて、一番より六番までの名目あり(是より、番町といふ)。〇田島山誓願寺、天正十八年小田原より当国へ呼下し給ひ、今年本銀町の地に寺院を給ふ(慶長元年又須田町へ移され、明暦の災後浅草へ移さる。其の外の寺院多く江戸へ移され給へり。また彼の地の商農も次第に江戸へうつれり。吉原傾城町の開発人庄司甚右衛門は、北条家に仕へし者の子なり。父果てて後小田原落去あり、其の頃年十五歳にてありしが、家来の介抱にて江戸へ下り、所縁のものにちなみて居住しけるが、成長の後傾城町開基の事をはかり、官許を得て廓をひらけり。尚元和の件にしるせり。又小田原の豪家増田太郎右衛門友嘉、明人にといふ眼薬の方を授かりしが、北条家亡びて後江戸に来り、本町四丁目に住して彼の薬を售ふに、大いに験ありて行はる。今は他人の家に製せり)。

 筠庭云ふ、吉原開基の事は別に論あり。目薬を売りし益田が事、「事跡合考」抔によりて見れば、元小田原にて豪家とも思はれず。

 [筠補]此の年、太閤秀吉公朝鮮征伐初まる。

文禄二年[一五九三]癸巳 九月閏

 天正十八年の後、品川へ寺地を給はりし日照山法禅寺(開山英誉心阿上人)、今年道三河岸へ移る(天和三年深川今の地へ移る)。〇惺窩先生(藤歛夫)始めて江戸へ下る(旅寓の室中に扁して我有と書く)。台命を得て「貞観政要」を読まれし閑暇、四景我有解の文を作りて、東関の遨遊とすと(四景とは士峯、武野、隅田、筑波を云ふ。其の文は先生文集に見えたり、長ければ略す。「惺窩和歌集」、東に下りはべる時、

 たかなさけかくやは家をおくりゆかむ都の月の東路のそら

〇天正の頃常陸国江戸崎といふ所に住する、、諸岡一羽と云ふ兵法名人あり。土子泥介、岩間小熊、根岸菟角と云ひて、名を得たる弟子三人あり、諸岡重病の時、菟角のみ病人を見捨てて蓄電し、江戸へ来て微塵流と名付け、一派を起して弟子多く随へ、上見ぬ鷲の勢ひをなす。一羽は三年過ぎて病死したり。両人の弟子菟角が事を聞きて、弥憤り、両人の内江戸へ下りて菟角を討つべしと議し、鬮をとりて小熊に当りしかば、小熊は江戸へ趣く。泥介は国に止まり、鹿島の社に菟角調伏を祈る。小熊江戸へ下りて、文禄二年九月十五日、日本橋にて菟角に出会ひたり。官府より此の事を聞き、刀脇差を預り、木刀の仕合をゆるし給ひしかば、両人木刀を持ちて立会ひける。菟角負けて、其の場より蓄電して行方知らずとぞ(以上「北条五代記」の文を略す。曳尾庵が編の「我衣」に、千太が谷八幡宮の額に菟角と名書したる額ありしと記せり。今は見えず)。([正誤]小熊菟角の出会ひを「北条五代記」の書入れになづみて、日本橋の上とす。案ずるに此の時は未だ日本橋の懸らざる前なり)。

筠庭云ふ、小熊といふ者菟角といへる者と戦ひし処、日本橋にあらず。御城の大手大橋のもとゝといへれば今の常盤橋にや。此の時に奉行衆橋の両方に弓鎗を以て警固あり、小熊は橋の西より出で、菟角は東より出でむかう、豊後守といふ人是れを見て、菟角御城へ向ひて闘ふ。如何で勝を得んといへりとぞ。果して菟角は橋桁に押付けられ、橋げた腰より下にありければ、川の中へ彼の者さかさまに落ちたりと云ふ。此の事「北条五代記」作者の三浦氏、親しく見聞せし処なるよし、其の書にいへり。是れ日本橋ならぬこと知るべし。

文禄三年[一五九四]甲午

九月、千住大橋を始めて掛くる(此の地の鎮守同所熊野権現別当円蔵院の記録に、伊奈備前守殿これを奉行す、中流急湍にして橋柱支ゆる事あたはず、橋柱倒れて船を圧し、船中の人水に漂ふ、伊奈侯熊野権現に祈りて成就すといふ)。〇今年米穀豊穣なり。〇小田原不老山寿松院、今年当地に移させられ、今の鍜治橋の内に寺院を給はる。後年神田柳原の辺へ移り、又浅草へ移る。

文禄四年[一五九五]乙未

武蔵小判成る(光次と墨書す。武蔵と駿河両所にて造らせらる)。〇小田原当知山本誓寺、江戸に移し給ひ、日比谷猟師町の辺に地を給はる。後馬喰町の辺に移り、天和二年の後今の地へ移る。〇「慶長見聞集」云ふ、舟町と四日市のあひにちひさき橋唯一ツあり、是れは往復の橋なり。文禄四年夏のころ、此の橋のもとにて銭瓶を掘出す。永楽銭うち交りてありしを官府へさゝげたり。夫より此の橋を銭瓶橋といふとあり。しかれば船町幷びに四日市町は、今の銭がめ橋のあたりに在りし物なるべし。

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武江年表 天正18~19年(1590~1591)

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天正十八年[一五九〇]庚寅

今年八月一日、台駕はじめて江戸の御城に入らせ給へり。そのころは御城の辺、葦沼汐入等の地にして田畑も多からず、農家寺院さへ所々に散在せしにを、慶長に至り始めて山を裂き地をならし、川を埋め溝を掘り、士民の所居定め給ひしより、万世不易の大都会とはなれり。しかりしよりこのかた、万民干沢に浴し奉るのありがたき事、申すも中々おろかなるべし(中古より八月一日を田の実と号して佳節とす、わけても今年御打入八月一日なるゆえ、毎年八朔の御祝儀五度の佳節と等しく、御嘉例となりしとぞ)。〇今年七月、北条氏政一家滅亡、小田原落城あり。〇「事跡合考」に、御入国の後、不日に行徳の塩を江戸へ運送の為、彼の地より船の通路を掘らしめ給ふ。是れ今の高橋の通りなりといへり(天文より元亀のころは、行徳より小田原へ塩の年貢を納めしよし、彼の地の口碑に残れり)。〇八月、平河天満宮、御城内梅林坂より御城の北平河口へ移される。〇夏伊勢の与市といへる者、銭瓶橋の辺(此の時は未だ此の橋之無し)に銭湯風呂一ツを立つる。風呂銭永楽一銭なり。皆人珍らしきとて入る(「慶長見聞集」に出づ)。〇円満山広徳寺(今は下谷にあり)小田原に在りしが、今年北条家滅亡の後江戸へ来り、今の昌平橋の沼地を開き草庵を営む(此の時の住持を希叟和尚といふ。後神田へ移り、夫より後寛永中今の地へ移る)。〇天正の頃、関東に乱波風間といへる強盗あり。党を結び陣中へ忍び入りて盗みをなす。諸人恐れたるが、今年より何れへか逃退て其の噂絶えたり(「北条五代記」に出づ)。

筠庭云ふ、此の条いたく誤れり。乱波とはそれらが総名にて、其の中に風魔といへるが有りしなり。これは軍中にめしつかひし間者、しのびのわざをなす者どもなり。されば「北条五代記」に、是れ等のものどもを国持大名衆扶持し玉ひぬ。氏直も乱波二百人扶持す。一の悪者あり、かれが名を風魔といふ。同類の中四頭あり。山海の両賊強窃の二盗是れなり。これを使ひて敵国を侵し、謀計調略するが為めなり。天正の頃のみ有りしものにはあらず。但し、かの風魔は氏直の時の者なれば、天正十八寅年小田原滅亡してうせたるなり。委しくは本書を見るべし。

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■天正十九年[一五九一]辛卯正月閏

正月、関八州の諸家、歳首の御賀として始めて登城ありしと云ふ。〇十一月、関東諸社に、御寄附領の御朱印を給はる。〇赤坂一ツ木町屋出来る。〇十二月、関八州通用のために、大判小判を造らしめ給ふ(此の時代銀一枚凡そ金壱両にあたるといふ)。〇小田原の雲鳳山種徳寺、今年糀町へ移り、後赤坂一ツ木へ移る。〇[?補]此の年、奥州九戸乱に依りて御進発。

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武江年表 はじめに

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はじめに

「武江年表」は、斎藤月岑が編纂した江戸についての年表です。われわれが思い描く年表とはやや異なっていて、年ごとの出来事をいくつかの資料を使ってまとめあげてはいるのですが、ときどき、エピソードめいた話題が長々とつづられており、これがまた読みでがあっておもしろく、ついつい読み込んでしまいます。つまり、いまどきはやりの「読む年表」なのです。ただし、天下国家はお呼びではなく、江戸市井の話題ばかりではありますが。まあ、落語的ですね。
天正十八年から始まって、明治六年まで続きますから、283年間にわたる年表です。
江戸文学や近世史を研究する人々には必須の文献ではあるのですが、じつは落語にも有効なのです。江戸市中ではしょっちゅう寺社の「開帳」という催しがありまして、これは寺社の小遣い稼ぎなのですが、これを調べていくと、おおざっぱな傾向が見えてきます。開帳を派手にやっている寺社には特徴や傾向があるのです。開帳というは日蓮宗のアイデアなのだそうです。開帳寺は日蓮宗系寺院に多く、これらを見つめていくと、落語の描かれ方にひとつの傾向が見えてくるようなのです。どう見えてくるのかはこれからのお楽しみ。ここでは「武江年表」をできるだけ原文のまま掲載していきます。読みやすくするための若干の工夫は行いますが、原文省略は無意味なので一切しません。現時点(2017年12月8日)のネット上では「武江年表」をどなたもアップされていないようですので、このような酔狂もいくばくかの価値はあるものと踏んで始める次第です。なお、平凡社の東洋文庫版を底本としました。喜多村信節(筠庭)の補正が付いた大正元年刊の「増訂版」です。時折文中で「筠庭」とあるのは彼のこと。さっそく読んでいきましょう。(ふ)

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武江年表 さくいん

武江年表 さくいん

はじめに

慶長元~19年(1596~1614)
元和元~9年(1615~1623)
寛永元~20年(1624~1643)
正保元~4年(1644~1647)
慶安元~4年(1648~1651)
承応元~3年(1652~1654)
明暦元~3年(1655~1657)
万治元~3年(1658~1660)
寛文元~12年(1661~1672)
延宝元~8年(1673~1680)
天和元~3年(1681~1683)
貞享元~4年(1684~1687)
元禄元~16年(1688~1703)
宝永元~7年(1704~1710)
正徳元~5年(1711~1715)
享保元~20年(1716~1735)
元文元~5年(1736~1740)
寛保元~3年(1741~1743)
延享元~4年(1744~1747)
寛延元~3年(1748~1750)
宝暦元~13年(1751~1763)
明和元~8年(1764~1771)
安永元~9年(1772~1780)
天明元~8年(1781~1788)
寛政元~12年(1789~1800)
享和元~3年(1801~1803)
文化元~14年(1804~1817)
文政元~12年(1818~1829)
天保元~14年(1830~1843)
弘化元~4年(1844~1847)
嘉永元~6年(1848~1853)
安政元~6年(1854~1859)
万延元年(1860)
文久元~3年(1861~1863)
元治元年(1864)
慶応元~3年(1865~1867)
明治元~6年(1868~1873)
附録

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