落語家を笑え(物故者編)

2006.10.13

柳家小せん(四代目)

どんな人?

1923年:7月24日、東京市・下谷区(東京都台東区)生まれ。
ただし、別資料では新潟県出身とも。
本名・飯泉真寿雄(いいずみ・ますお)。
父・真寿美(1892-1972)は当時、四代目蝶花楼馬楽(のち四代目小さん)門下で
花蝶を名乗り、落語のかたわら百面相を演じる芸人。

1934年:父が柳家小満んと改名。

1941年?:下谷中学を卒業。このころ、父の門下となり、柳家小満輔(こますけ)を
名乗った時期があったらしい。

1949年:4月、九代目柳家小三治(のち五代目柳家小さん)に一番弟子として入門。
前座名・柳家小満輔。

1950年:9月、師匠・小三治が五代目小さんを襲名。

1951年:二つ目昇進、小きんと改名。

1959年:3月、KR(現フジテレビ)系列「お笑いタッグマッチ」にレギュラー出演。
大喜利番組のハシリで、木曜昼からの30分番組。他のメンバーは三遊亭小円馬、
桂伸治、三笑亭夢楽、春風亭柳好、金原亭馬の助。小せんを加えた六人が、
二組に分かれて珍問答を繰り広げる趣向。ほかの五人はすでに真打で、小せん
(当時小きん)のみ二つ目だったが、小せんが連発した「ケメ子」が大ウケで
流行語に。これで一気にブレーク、以後「日曜演芸会」「大正テレビ寄席」
「末広演芸会」ほか、お笑い番組に相次いでレギュラー出演。とぼけた個性で
大喜利でボケ回答を連発、人気急上昇。

1961年:四代目柳家小せんを襲名、真打昇進。

1963年:12月、新宿コマ劇場公演「底抜け長屋」ほかに出演。

1965年:1月、東京映画「波影」で映画初出演。以後、「紙芝居昭和史」
(72年・東宝)まで、脇役ながら四本の映画に出演した。

1968年:4月、一番弟子の柳家せん松(現・せん八)が入門、前座名せん松。

1975年:10月、テレビ朝日系列「末広演芸会」にレギュラー出演。
小せんは桂米丸司会の大喜利「お笑い七福神」のメンバー。スミ塗られ役で名物男に。

2002年:5月16日、師匠の五代目柳家小さんが死去。

2003年:6月16日、春風亭柳昇の死去により、その時点で現役最年長の落語家に。

2004年:11月24日に上野・鈴本演芸場で「道灌」を演じ、これが最後の高座。
翌年正月、浅草演芸ホール上席でトリを勤める予定も休演。

2006年:10月10日午後10時23分、肺炎のため東京都足立区の病院で死去。83歳。

唯一の古典落語音源

品川心中」(談志が選んだ・艶噺し7 コロムビアCOCJ-30756)

小せん師匠、現存唯一の古典落語音源です。

小せんとひょっこりひょうたん島

小せん師匠といえば、
「ひょっこりひょうたん島」、デタラメデスの声。

「オリュンポス」のパロディ、クラレモッタ島の神さまの一柱。
宇宙の運行を司っているというのに、
やることなすこと、デタラメとズッコケばかり。

果ては、確か梅干泥棒までやらかしたはず。

まさに、小せんの落語や大喜利そのまま。
あの鼻から出る声だけで、完全に場をさらっていました。

今思えば、「ひょうたん島」でもあのシリーズは
「死神」に登場する、命のローソクも登場していて、
落語の影響が強く感じられます。

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2006.03.24

三遊亭円右(三代目)

どんな人?

1923年:12月8日、 東京府下豊多摩郡馬橋村(現・杉並区阿佐ヶ谷南二丁目)に生まれる。本名・粕谷泰三。 父・伊三郎、母・つなの二男一女の長男。父は浪曲師で芸名・木村重丸、母も常磐津文字綱を名乗る芸人夫婦だった。

1934年:尋常小学校5年。寄席の楽屋に遊びに行っているとき、出演者の休演でつなぎの代役に駆り出され、ウロ覚えの落語を演じて大ウケ。これが落語開眼の初めとか。

1941年:工学院工手学校を卒業? 後、3月、二代目三遊亭円歌に入門、前座名橘ノ小円左で初高座。ただし東京の寄席には出演できず、ドサ(地方)回りが続く。なお、一部の資料に初代橘ノ圓(まどか)門下というのは疑問。(圓は1935年に死去)

1943年:応召。終戦まで砲兵として南方を転戦。

1945年:スマトラで終戦。

1946年:復員。落語界に復帰するも売れず、司会などで食いつなぐ。

1947年:3月、新作派の闘将・五代目古今亭今輔に再入門して落語芸術協会に加入、古今亭寿輔と改名。一年先輩の兄弟子に現・桂米丸(年齢は二歳下)がいた。師匠の影響で以後新作落語の創作・口演を志す。

1948年:2月、二つ目に昇進。

1951年:3月、師匠・今輔の長女以祢子と結婚。

1955年:4月、三遊派の大名跡・三代目三遊亭円右を襲名して真打昇進。9月封切りの東京映画制作「若夫婦なやまし日記」で映画初出演。このころから、明るく、アットホームな芸風で人気が出だし、新作一筋で「銀婚式」「日蓮記」などの人情もの、文芸路線のほか、師匠・今輔の「おばあさんもの」も継承し、「温泉おばあさん」「七夕おばあさん」ほかの創作落語がヒットする。

1970年:このころから、きれいに光りはじめた頭を看板に、出演した「エメロン石けん」や成人向け紙おむつ「アテント」のCMが大ヒット。たちまちテレビの人気者になる。

1973年:18年ぶりに松竹映画「喜劇 日本列島震度0」に、 落語家・遊遊亭円左役で出演。映画出演はこれが最後。

1976年:12月10日、師匠の古今亭今輔が死去(享年78)。
1995年:11月、テイチクエンタテインメントから、CD円右の艶笑落語(春夏秋冬・新活療法、銀婚旅行)発売。

2000年:前立腺がんを発病。以後、闘病を続けながら高座に上り続ける。

2006年:1月5日、池袋演芸場で「日蓮記」を演じ、これが最後の高座に。3月22日午後10時40分死去。享年82。

著書は?

1986年6月 「寄席界隈艶噺」(よせかいわいつやばなし) 三樹書房
1987年7月 「円右のなんともかとも艶噺」 三樹書房
1992年6月 「ちょっと内緒の艶噺」 三樹書房

ついでに

円右師匠の知られざる日常はこちら

初代と二代目の円右についてのエピソードは、こちら

円右のCD

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2005.10.29

三笑亭夢楽

                                                                                                     三笑亭夢楽

夢楽のこと

1925年1月5日、岐阜県生まれ。本名渋谷滉。

五代目古今亭今輔に入門したのが1949年3月。前座名は今夫。
このとき、同年の米丸は入門4年目で今児、
夢楽入門の翌月、米丸襲名で真打昇進。
二歳年長の現・円右は入門三年目で寿輔、二つ目。

2年修行したが、やはり古典をやりたいと今輔に願い出て、
1951年4月、八代目三笑亭可楽門に移る。
ここには当時ただ一人の兄弟子、現・笑三が前座で可寿美。
この人も1925年生まれの同年。

今輔は今夫を連れ、一升瓶を提げて可楽宅に挨拶に。
だから本人いわく、
「あたしは酒一升でトレードされた(笑)」。

あとは順調で、翌5月、夢楽で二つ目。
「むらく」はそれまで九代を重ねるが、亭号は「朝寝坊」で、
いずれもカナ書きだから、「三笑亭夢楽」は正真正銘の初代。

1958年9月、桂小南、桂伸治(十代目桂文治)、春風亭柳昇
四代目春風亭柳好、三遊亭小円馬とともに、
「十把一からげ」で真打昇進。
この6人のうち、小南を除いた5人に
柳家小せん、金原亭馬の助が加わった面々がレギュラーで、翌59年3月、
お笑いヴァラエティ番組のはしり、「お笑いタッグマッチ」(フジテレビ系)がスタート。
この昼帯の30分番組は大人気になり、夢楽ほか7人はたちまち売れっ子に。
これは67年まで続いた長寿番組だった。

28日付の「日刊ゲンダイ」で、吉川潮が、
連載中の「テレビが面白かったあの頃あの人」でこの番組に触れ、
「以上の7人のうち存命なのは、夢楽(80歳)と小せん(82歳)だけになってしまった」
と書いた日に、その夢楽が仲間のもとに旅立ったのも何かの因縁。
かくてとうとう、「タッグマッチ」七人の侍の生き残りは、小せんただ一人に。

大正生まれの落語家

大正生まれの現存の噺家は、事実上引退状態の師匠を含め、

上方落語協会で

桂米朝(1925.11.6生)

笑福亭松之助(1925.8.6生)

関西落語文芸協会で

林家染三(1926.10.8生)

落語協会で

柳家小せん(1923.7.24生)

柳家さん助(1926.8.6生)

落語芸術協会で

桂米丸(1925.4.6生)

三遊亭円右(1923.12.8生)

三笑亭笑三(1925.10.28生)

三遊亭右女助(1925.9.19生)

柳家金三(1926.1.10生)

以上、10人となりました。

若手落語会とは?

劇評家・安藤鶴夫(1908~69)の肝いりで、
「芸術祭男」の異名を取った天才プロデューサー
湯浅喜久治(1929~59)が主宰した
一流劇場のホール落語形式という、
画期的な若手落語家の勉強会。

第1回は1955年1月。

年4回、3か月おきの公演で、
日比谷の第一生命ホールで開かれていました。

同人は協会を問わず、安藤や湯浅がこれと見込んだ
当時の前座、二つ目の有望株で、
親分肌の夢楽は発足当初から、
世話人として参画していました。

初期のおもなメンバーは、
金原亭馬の助(先代)、のちの小南、円楽、志ん朝など。

創立メンバーには、当時19歳だった
柳家小ゑん(現・立川談志)もいました。

1958年12月、若手落語会は昭和33年度の
芸術祭団体奨励賞を受賞しましたが、
翌59年1月、公演直後に、
湯浅が睡眠薬ののみすぎで変死。

夢楽が連絡のない湯浅をアパートに訪ね、
その死体の第一発見者になったことは
安藤の直木賞受賞作「巷談本牧亭」に実名で書かれています。

夢楽は湯浅の遺志を引き継ぐ形で、以後約20年、
若手落語会を主宰し続け、後進の育成に大きな貢献をしました。

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2005.09.19

橘家円喬(四代目)/落語家

橘家円喬

どんな人?

1865年11月9日(慶応元年9月21日):江戸・本所柳原に生まれる。本名・桑原(のち柴田)清五郎。

1872年:7歳で三遊亭円朝に入門。前座名朝太。

1878年:三つ目(二つ目?)に昇進、二代目三遊亭円好と改名。このころ音曲師を志す。

1882年5月:東京を離れ、以後徴兵検査まで約3年、上方で修行。

1888年:帰京。

1887年1月:四代目橘家円喬を襲名。日本橋瀬戸物町の伊勢本で真打昇進披露。         以後、芸の進境はめざましく、長編人情噺、落し噺において、話芸だけなら師・円朝をしのぐとまで言われ、名人の名をほしいままにする。

1912年11月16日:日本橋・末広亭での独演会が最後の高座となる。六日後の同月22日、肺結核のため日本橋玄冶店(当時住吉町、現日本橋人形町三丁目)の自宅で死去、享年47。辞世「筆持って月と話すや冬の宵」。墓所は雑司が谷鬼子母神の法明寺(現・豊島区南池袋三丁目)。

ディスコグラフィー

CD:落語蔵出しシリーズSP盤復刻 コロムビア COCF-14828 「附焼刃」(「半分垢」)

名人中の名人??

小島政二郎(作家、小説「円朝」著者)
「円喬は円朝よりうまい」

六代目三遊亭円生
「(自分が聴いた中で)本当の名人は円喬師だけ」

久保田万太郎(劇作家・作家)
「小島クンは円朝を聴いていないから、そんなことを言う」

円朝の没年、久保万11歳、小島6歳。
円喬の没年、円生12歳。

目くそ鼻くそ。本当に聴いてたのかいな?
かくて伝説は一人歩きする、という次第。

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談洲楼燕枝(初代)/落語家

談洲楼燕枝

どんな人?

1838年:12月2日(天保9年10月16日)、江戸・小石川に生まれる。本名・長島伝次郎。幼名は伝之助。

1856年:初代春風亭柳枝に入門、春風亭伝枝を名乗る。

1861年:12月、初代柳亭燕枝と改名、小石川小日向の服部坂席で真打昇進披露。

1871年:このころ道具入り芝居噺から素噺に転向。

1881年12月:六代目桂文治と共催で、本郷・春木座で初の落語家(シカ)芝居を興行。このころ、三遊派の円朝に対抗して、柳派の頭取として一枚看板に。

1885年:談洲楼燕枝と改名。3月7日:両国・中村楼で嗣号改名披露。

1888年:三遊亭円朝とともに落語界を代表し、政府の肝いりで組織された「演芸矯風会」の評議員に就任。

1890年:柳派頭取を、高弟の三代目春風亭柳枝に譲り、事実上の引退。

1900年:2月11日、動脈瘤破裂のため死去。享年61。辞世「枯れるものの終わりもありて瘤柳」。墓所は浅草・源空寺。

見過ごされがちな名人

三遊亭円朝と、明治の落語界の勢力を二分した大立者で、

人情噺、芝居噺の大家。芸風は男性的で、

武士や侠客の表現に優れていたといいます。

歌舞伎界のボス・九代目市川団十郎と義兄弟の親交を結ぶなど、

各界に幅広い人脈を誇りました。

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禽語楼小さん(二代目)/落語家

禽語楼小さん

どんな人?

1849年:8月(旧暦、日不詳)、日向・延岡に生まれる。本名・大藤楽三郎。代々、延岡藩士の家柄。少年期に高島秋帆に砲術を学ぶ。

年不詳:幕末~明治初期、初代柳亭燕枝(のちの初代談洲楼燕枝)に入門、燕花を名乗る。間もなく師匠の勘気を受け、地方を巡業したあげく静岡に落ち着く。

1876年(80年とも):上京して師匠に許され、静岡で燕静の名で落語家に復帰。

1878年:同年暮れに再度上京、翌年正月から東京の寄席に復帰。二代目春風亭柳枝の弟子分となって燕寿と改名。

1883年:二代目柳家小さんを襲名。

1888年:3月、ひいきの医学博士・松本順に「禽語楼」の号を贈られ、禽語楼小さんと改名。同月、両国・中村楼で改名披露。「禽語」は鳥の鳴き声のことで、小さんの声や語り口が高調子だったことからの命名という。

1895年(97年とも):3月、門弟の柳家小三治に三代目柳家小さんを襲名させ、自らは柳家禽語楼を名乗る。このころから体調すぐれず。

1898年:7月3日死去。享年48。

サムライ噺の名手

明治落語界「反主流派」の巨頭。
人情噺の名人連がずらりとそろう円朝一門に対抗、
同じサムライくずれのポン友・初代三遊亭円遊と組んで、
落とし噺路線を押し通し、現在演じられる多くのこっけい噺の
基本的な演出を確立したエライ人。

サムライ出身だけに武士の表現がうまく、
「目黒のさんま」「将棋の殿さま」「盃の殿さま」などの
殿さま噺を得意にしました。

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三遊亭円朝(初代)/落語家

三遊亭円朝

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2005.09.18

林家三平/落語家

                                                                                                       林家三平

「よしこさぁ~ん、こっち向いてぇ」

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桂文朝(三代目)/落語家

                                                                                                           桂文朝

2005年4月18日没。享年63。
最後の高座は本年2月4日、新宿・末広亭の「寄合酒」でした。

どんな人?                                              4547366009606

1942年3月31日:東京生まれ。本名・田上孝明。
1952年7月:山遊亭金太郎(二代目桂小南)に入門、山遊亭タア坊。
1955年:山遊亭金時と改名。
1959年1月:桂小西と改名、二つ目に昇進。
1970年4月: 真打昇進、桂文朝に(推定三代目)。
1975年:文化庁芸術祭優秀賞受賞。
1978年:放送演芸大賞落語部門賞を受賞。
1985年1月:桂南喬、桂文生とともに、落語芸術協会から落語協会に移籍。

さりげない名人、あるいは認識の甘さ

大西信行氏が、文朝について次のように書いたのは、
もう三十余年の昔になります。

 「……さて、文朝のどこがいいのかともうひとつ突っ込んで聞くと、だれも
はっきりした返事はきかしてくれない。漠然と素直であかるくていいという。
(中略)それでは少しも褒めたことにはならない」(「落語無頼語録」)

子供の時からかわいがられた大師匠・ 三代目三遊亭金馬の
「時代の好みをかぎわけるセンス」や、
芸に臨む「強気と気迫」を、
少しでもまねしないと結局期待されるだけで終わってしまうよ
という、まだ若手の有望株だった文朝への、
師の親身の忠告だったはずです。

しかし、その人も、春風駘蕩とした
ほんわりした温かさのみを我々に残して、
とうとう旅立ってしまいました。(た)

三人の会は終わったな

当たり前か。

扇橋、小三治、文朝の三人会が懐かしい。(ふ)

「明烏」で魅せた才気

昭和38年、桂南喬が入門したとき、
師匠の金馬(三代目)は、
「ハナシは小西に教わんな」と言ったそうです。

その桂小西、のちの文朝は、当時21歳、
それでももう二つ目になって5年目です。

なんせ、入門が10歳ですから。

2005年9月17日夜
国立演芸場でフィルム上映された、文朝の「明烏」。

昭和54年9月の、同じ国立演芸場でのものでした。

37歳。真打昇進10年目。

その「明烏」はといえば、
文楽のを当然踏襲しながら、
文楽の持っていた一種の圧迫感、重苦しさをきれいに昇華した、
ため息が出るほど何ともみごとな出来。

闊達自在、十二分に演じきりながら、
ギリギリのところで抑制が利き、決して崩れない、
六代目尾上菊五郎の言うような「行儀のいい」芸。

この高座に関するかぎり、確かに表立って
ギラギラした気迫や野心は感じられないものの、
大西信行氏が指摘した「ただのホンワカ芸」という欠点より、むしろもう、
37歳にして円熟、完成されてしまっている芸という印象。

今の四十前後の噺家を見渡しても、
これほど自在な話術を操れ、
客を快く楽しませてくれる人は
ちょっと見当たらないでしょう。

見返り柳を「ご神木」、大門を「大鳥居」、
歌舞音曲を「祝詞」とゴマかすのは、
たしか文楽にはなかった入れごとで、
こうしたちょっとしたギャグにも才気を感じさせました。(た)

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桂文治(十代目)/落語家

                                                                                                          桂文治

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どんな人?

1924年:1月14日、東京・雑司が谷生まれ。本名・関口達雄。

1946年:6月、桂小文治に入門、前座名桂小よし。

1948年:10月、二つ目に昇進、伸治に。

1958年:9月、同名で真打に昇進。

1959年:フジテレビ系列の昼の演芸バラエティ「お笑いタッグマッチ」に
レギュラー出演。とぼけた個性で人気急上昇。

1979年:3月、十代目桂文治を襲名、桂派宗家となる。

1981年:11月、前月の三越落語会の高座で、芸術祭賞優秀賞受賞。

1996年:3月、第46回芸術選奨文部大臣賞受賞。

1999年:10月、落語芸術協会会長に就任。

2001年:12月、うなぎ書房から著書「噺家のかたち」を出版。

2002年:11月、勲四等旭日小綬章授章。

2004年:1月31日午後5時17分、急性白血病による腎不全のため死去。享年80歳。
芸協会長の任期最後の日だった。戒名は文翁院話玄達道居士。

多芸多才の文治師匠

書道、彫刻、盆栽と、すべて玄人はだしの多芸多才で知られました。

なかでも、南画は院展で何度も特選。

東京都美術館の審査員も務めました。

本業の落語は、軽妙洒脱な江戸前の滑稽噺一筋。

普段から和服を着こなし、高座では黒紋付で通すなど、粋を絵に描いたよう。

地噺の「源平盛衰記」「やかん」、落とし噺では「豆屋」「たがや」、
志ん生とはまた一味違う「火焔太鼓」などなど……。

巻き舌で語尾がかすれる、
あれほど生粋の江戸ことばがしゃべれる噺家は、
もう永久に出ないでしょう。(た)

文治の父・初代柳家蝠丸(ふくまる)

独特の滑稽味と機知で、大正初期から昭和初期にかけ、
けっこう人気があった人のようです。

五代目志ん生がよく演じた「女給の文」は、この人の作。

年を三歳ほどゴマかしていたらしく、
明治16年(1883)ごろの生まれといわれますが、
いまだに生年月日ははっきりしません。
戦時中の昭和18年(1943)10月24日死去。

写真で見ると、細面に眼鏡をかけたインテリ風。
面差しはやはり血筋で、故・文治にどことなく似ています。
着物を着ていなければ、キャリア官僚か銀行員といっても十分通るでしょう。(た)

書家のお気に入り

その昔、青山杉雨という、烈火のような書家がいました。

子分たちをどやしつけながら、

日本の書道界をひっぱっていた、かっこいい爺さんでした。

この人、実は落語が大好きで、お気に入りは古今亭円菊と桂文治。

「文治ってえのは、

ラジオの放送時間に合わせられずにはなしちゃったりするんだ。

ホント、頭悪いんだ。けど、いい味してるんだな。

噺家の雰囲気がにじみ出てるやつは、いまどき、こいつだけだ」

と、晋風楼で語ってましたっけ。今では、烈火爺も文治も鬼籍の人に。

これはこれで懐かしい思い出です。(ふ)

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柳亭痴楽(四代目)/落語家

                                                                                                       柳亭痴楽

どんな人?

1921年:5月30日、富山県生まれ。本名・藤田重雄。

1939年:豊竹歳太夫に入門して義太夫を修行したのち、この年落語家を志して七代目春風亭柳枝に入門。前座名春風亭笑枝。

1941年:1月14日、師匠・柳枝が死去。同年、五代目柳亭左楽門下に移り、四代目柳亭痴楽を名乗って二つ目昇進。

1945年:9月、同名で真打昇進。戦後誕生の真打第一号となる。焼け残りの人形町・末広で昇進披露。

1954年:この年、4年前に事故死した三遊亭歌笑のヒット作「歌笑純情詩集」を模した「痴楽綴方教室」が寄席、ラジオで評判に。以後同シリーズの「恋の山手線」「青春日記」「笑道一代」などが立て続けに大ヒット、昭和30年代前半のお笑いスターの一人に。以後昭和40年代後半まで、安定した人気を保つ。

1973年:大阪巡業中に、楽屋で脳血栓で倒れ、事実上再起不能。以来20年にわたって闘病生活を送る。

1987年:浅草の特養老人ホームに移る。

1993年:10月31日、「柳亭痴楽を励ます会」有志の尽力で、20年ぶりに新宿・末広亭の高座を踏むが、同年12月1日死去。享年72歳。

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なつかしの痴楽「恋の山手線」

柳亭痴楽はいい男、鶴田浩二や錦之助、
それよりもっといい男。
上野を後に池袋走る電車は内回り、
私は近頃外回り。

彼女はきれいなうぐいす芸者(鶯谷)、
ニッポリ(日暮里)笑ったそのえくぼ、
田畑(田端)を売っても命がけ、
わが胸の内、こまごまと(駒込)、
愛のすがもへ(巣鴨)伝えたい。

おおつかな(大塚)びっくり、故郷を訪ね、
彼女に逢いに行けぶくろ(池袋)、
行けば男がめじろ押し(目白)、
たかたの婆や(高田馬場)新大久保の
おじさんたちの意見でも、
しんじゅく(神妙に?=新宿)聞いていられない。
夜よぎ(代々木)なったら家を出て、
腹じゅく(原宿)減ったと渋や顔(渋谷)、
彼女に逢えればえびす顔(恵比寿)。

おやじが生きて目黒いうちは(目黒)、
私もいくらか豪胆だ(五反田)。
おお先(大崎)真っ暗恋の鳥、彼女に贈るプレゼント、
どんなしながわ(品川)良いのやら、
魂ちいも(田町)驚くような、
色よい返事をはま待つちょう(浜松町)、
そんなことばかりが心ばしで(心配=新橋)、
誰に悩みを言うらくちょう(有楽町)。

思った私が素っ頓狂(東京)、
何だかんだ(神田)の行き違い、
彼女はとうに飽きはばら(秋葉原)、
本当におかち(御徒町)なことばかり、
やまて(山手)は消えゆく恋でした。

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桂三木助(三代目)/落語家

                                                                                                       桂三木

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桂小南/落語家

                                                                                                          桂小南

konan

どんな人?

1920年:1月2日、京都府北桑田郡京北町に生まれる。本名・谷田金次郎。

1939年:呉服屋の丁稚を経て上京、三代目三遊亭金馬に入門。前座名山遊亭金太郎。

1941年:応召。

1945年:復員後、金馬一門に復帰(月不明)。当時は師匠とともにフリー。

1953年:師匠・金馬の口利きで桂小文治の身内となり、同時に芸術協会に加入。これは、当時金馬が東宝専属だったので、門弟に寄席の仕事を回すための配慮。このとき二つ目待遇に。

1958年:9月、八代目桂文楽の好意で二代目桂小南を襲名、真打昇進。昇進披露は桂伸治(十代目桂文治)、春風亭柳昇、三笑亭夢楽、四代目春風亭柳好、三遊亭小円馬とともに六人まとめてのもの。

1968年:芸術祭奨励賞授賞。

1969年:11月、芸術祭大賞を受賞。

1972年:このころより、「学校落語」の世話人となり、全国の小学校を巡回して、おもに低学年の児童に落語を聴かせる。

1989年:芸術選奨文部大臣賞を受賞。

1990年:紫綬褒章受章。

1996年:5月4日死去。享年76。

マニアックな?小南落語

没後十年近くを経て、なお「コナンでなければ」
という強烈でコアなファンが、結構多い人。

関西なまりの標準語で、「東京風」の上方落語を
小南流に演じる、何やらスパゲティーに味噌を付けて食うように
少々ややっこしかった小南落語。

確かに、かつて小文治、百生らが
上京して、そのままオリジナルの上方落語を演じたのとは
一味違っていました。

「私のは上方落語ではなく、小南落語です」
と言い放った当人に、大西信行氏が、

「人(三田純市氏)の忠告に耳を貸さず、小南落語などと称するのは僭称だ」

と痛烈にやっつけたのは1972年ごろ。
この人には、文朝ともども師弟まとめてやられてます。

まあ、それだけ小南自身の自意識も、東西の落語の融合という、
パイオニアとしての仕事への自負も強烈だったのでしょう。

今、落語芸術協会所属で、東京で仕事をしている鶴光が、
小南の志を、果たして受け継げるかどうか。

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三遊亭金馬(三代目)/落語家