落語家を笑え(物故者編)

2012.12.24

小沢昭一

変哲宗匠、天上す
            
 常々覚悟はしていたが、世紀の才人にしてかけがえなき落語界の恩人・小沢昭一氏がついに長逝された。まことに痛恨のきわみである。氏は1929年4月6日、あのオードリー・ヘップバーン嬢より一月前、江戸近郊豊多摩郡和田掘に、小沢写真館の若だんなとして出生、2012年12月10日午前1時20分、かのゲイリー・クーパー氏と同じく、これぞ男の中の男にふさわしき疾患・前立腺癌にて83年8か月4日のご生涯を閉じられた。

 故人の業績・肩書はその類まれな才にふさわしく多岐にのぼる。新劇俳優、演出家、俳人変哲、随筆家、歌手、ハーモニカ演奏家、古典芸能研究家にして、見世物学会顧問、元放送大学客員教授、ラジオパーソナリティーと、その行くところ可ならざるはなき中、就中、氏の若き日の燦然たる文化的業績として忘れ難きことは、早稲田大学落語研究会創設者として、全国の大学落研の魁となられ、さらに故・正岡容氏に師事して、伝統話芸研究に生涯多大なる貢献をなされたことだろう。アマチュア落語家としても、僚友の加藤武氏、故フランキー・堺正俊氏と並んで、その名人ぶりは今も語り草となっているが、劇作家・大西信行氏も著書で言及されているごとく、当時の「落研」の活動目的は、決して芸人養成所となるにあらずして、学窓に名人上手の師匠連をお招きし、その至芸を心行くまで味わい吸収することで江戸文化研究の一助とするというものだった。

 氏は、演じればプロでも即真打と噂の高い自らの技芸を、いささかも誇ることなく、ただ、体得された落語の真髄を俳優・話術家としての大成に生かす道を選ばれたのである。その意味で、去る2005年6月、新宿・末廣亭の下席で氏が今は伝説と化した「新宿末廣夢十夜」の高座に上られ、その変幻自在の話芸で満員観客を魅了し、現・落語協会会長をして感涙にむせばしめたことは、これからも落語あるかぎり語り伝えられるだろう。

 今はここに、故大人に勝手に当サイトより「名誉六代目古今亭志ん生」号を奉呈し、この不世出の偉才の面影をを偲ぶよすがとしたい。(た)

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2012.10.17

二代目古今亭円菊

手話落語の先達

  二代目古今亭円菊、本名・藤原淑。静岡県島田市生まれ。

 従来の資料だと、いずれも昭和4(1929)年4月29日生まれとなっていたが、今回の訃報ではどれも「84歳没」としてあり、してみると真実は昭和3年生まれだったらしい。ともかく五代目志ん生に入門したのは昭和28年7月で、その時、25歳3か月。

 それでも、精進の甲斐あってか、四年後の32年3月。二つ目昇進で生次から六代目むかし家今松。同年同月入門の現・橘家円蔵に二年差をつけられた。それからが長い道のりで、やっと真打に上り詰めたのが41年9月、38歳で二代目円菊を襲名。

 この名前は別に大きくも何ともなく、師匠・志ん生の二つ目に上がったときの名前が、円菊の初代だった。その間、志ん生が36年に脳出血で倒れ、円菊の今松は師匠の介護にかいがいしく働き、どこへでも彼が師匠を負ぶっていく。真打になっても売れるわけではなく、はっきりいえばずっと不遇だった。ただ、地道な精進がやっと五十過ぎに花開く。54年、協会理事に。

 そのころから後年「円菊節」と呼ばれる独特のイントネーションと間、噺と微妙にずれる、パントマイムのようなオーバーアクションも、円菊独特のものとして、根強いファンを獲得していった。翻って、いわゆるフラは乏しく、決して「うまい」噺家でも「面白い」噺家でもなかった。ただ、誠実で、嫌味のない芸ではあった。どこかしらホンワカして、爆笑できなくとも、何かこの人が高座に現れると、少しだけほっとして肩がほぐれる、行儀のいい芸。47歳から始めた手話落語、ボランティアや慰問への取り組みなどは、この人の気質のそうした、客に与える安心感と無縁ではない。こういう噺家は、案外いるようでいない、得難い存在だったのではないか。

 かつての志ん生一門の円菊の朋輩は、多くが還暦さえ待たず早世している。その中にあって、もっとも不遇で、開花が遅かった菊一輪が、師匠を一年超す長寿を保ち、一門の最長老として、将来への種まきを済ませ、心おきなく散った。それは師匠の霊が、この「下手くそな弟子」を、ほかの誰よりも信頼していた証拠かもしれない。合掌。(た)

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2006.10.13

柳家小せん(四代目)

どんな人?

1923年:7月24日、東京市・下谷区(東京都台東区)生まれ。
ただし、別資料では新潟県出身とも。
本名・飯泉真寿雄(いいずみ・ますお)。
父・真寿美(1892-1972)は当時、四代目蝶花楼馬楽(のち四代目小さん)門下で
花蝶を名乗り、落語のかたわら百面相を演じる芸人。

1934年:父が柳家小満んと改名。

1941年?:下谷中学を卒業。このころ、父の門下となり、柳家小満輔(こますけ)を
名乗った時期があったらしい。

1949年:4月、九代目柳家小三治(のち五代目柳家小さん)に一番弟子として入門。
前座名・柳家小満輔。

1950年:9月、師匠・小三治が五代目小さんを襲名。

1951年:二つ目昇進、小きんと改名。

1959年:3月、KR(現フジテレビ)系列「お笑いタッグマッチ」にレギュラー出演。
大喜利番組のハシリで、木曜昼からの30分番組。他のメンバーは三遊亭小円馬、
桂伸治、三笑亭夢楽、春風亭柳好、金原亭馬の助。小せんを加えた六人が、
二組に分かれて珍問答を繰り広げる趣向。ほかの五人はすでに真打で、小せん
(当時小きん)のみ二つ目だったが、小せんが連発した「ケメ子」が大ウケで
流行語に。これで一気にブレーク、以後「日曜演芸会」「大正テレビ寄席」
「末広演芸会」ほか、お笑い番組に相次いでレギュラー出演。とぼけた個性で
大喜利でボケ回答を連発、人気急上昇。

1961年:四代目柳家小せんを襲名、真打昇進。

1963年:12月、新宿コマ劇場公演「底抜け長屋」ほかに出演。

1965年:1月、東京映画「波影」で映画初出演。以後、「紙芝居昭和史」
(72年・東宝)まで、脇役ながら四本の映画に出演した。

1968年:4月、一番弟子の柳家せん松(現・せん八)が入門、前座名せん松。

1975年:10月、テレビ朝日系列「末広演芸会」にレギュラー出演。
小せんは桂米丸司会の大喜利「お笑い七福神」のメンバー。スミ塗られ役で名物男に。

2002年:5月16日、師匠の五代目柳家小さんが死去。

2003年:6月16日、春風亭柳昇の死去により、その時点で現役最年長の落語家に。

2004年:11月24日に上野・鈴本演芸場で「道灌」を演じ、これが最後の高座。
翌年正月、浅草演芸ホール上席でトリを勤める予定も休演。

2006年:10月10日午後10時23分、肺炎のため東京都足立区の病院で死去。83歳。

唯一の古典落語音源

品川心中」(談志が選んだ・艶噺し7 コロムビアCOCJ-30756)

小せん師匠、現存唯一の古典落語音源です。

小せんとひょっこりひょうたん島

小せん師匠といえば、
「ひょっこりひょうたん島」、デタラメデスの声。

「オリュンポス」のパロディ、クラレモッタ島の神さまの一柱。
宇宙の運行を司っているというのに、
やることなすこと、デタラメとズッコケばかり。

果ては、確か梅干泥棒までやらかしたはず。

まさに、小せんの落語や大喜利そのまま。
あの鼻から出る声だけで、完全に場をさらっていました。

今思えば、「ひょうたん島」でもあのシリーズは
「死神」に登場する、命のローソクも登場していて、
落語の影響が強く感じられます。

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2006.03.24

三遊亭円右(三代目)

どんな人?

1923年:12月8日、 東京府下豊多摩郡馬橋村(現・杉並区阿佐ヶ谷南二丁目)に生まれる。本名・粕谷泰三。 父・伊三郎、母・つなの二男一女の長男。父は浪曲師で芸名・木村重丸、母も常磐津文字綱を名乗る芸人夫婦だった。

1934年:尋常小学校5年。寄席の楽屋に遊びに行っているとき、出演者の休演でつなぎの代役に駆り出され、ウロ覚えの落語を演じて大ウケ。これが落語開眼の初めとか。

1941年:工学院工手学校を卒業? 後、3月、二代目三遊亭円歌に入門、前座名橘ノ小円左で初高座。ただし東京の寄席には出演できず、ドサ(地方)回りが続く。なお、一部の資料に初代橘ノ圓(まどか)門下というのは疑問。(圓は1935年に死去)

1943年:応召。終戦まで砲兵として南方を転戦。

1945年:スマトラで終戦。

1946年:復員。落語界に復帰するも売れず、司会などで食いつなぐ。

1947年:3月、新作派の闘将・五代目古今亭今輔に再入門して落語芸術協会に加入、古今亭寿輔と改名。一年先輩の兄弟子に現・桂米丸(年齢は二歳下)がいた。師匠の影響で以後新作落語の創作・口演を志す。

1948年:2月、二つ目に昇進。

1951年:3月、師匠・今輔の長女以祢子と結婚。

1955年:4月、三遊派の大名跡・三代目三遊亭円右を襲名して真打昇進。9月封切りの東京映画制作「若夫婦なやまし日記」で映画初出演。このころから、明るく、アットホームな芸風で人気が出だし、新作一筋で「銀婚式」「日蓮記」などの人情もの、文芸路線のほか、師匠・今輔の「おばあさんもの」も継承し、「温泉おばあさん」「七夕おばあさん」ほかの創作落語がヒットする。

1970年:このころから、きれいに光りはじめた頭を看板に、出演した「エメロン石けん」や成人向け紙おむつ「アテント」のCMが大ヒット。たちまちテレビの人気者になる。

1973年:18年ぶりに松竹映画「喜劇 日本列島震度0」に、 落語家・遊遊亭円左役で出演。映画出演はこれが最後。

1976年:12月10日、師匠の古今亭今輔が死去(享年78)。
1995年:11月、テイチクエンタテインメントから、CD円右の艶笑落語(春夏秋冬・新活療法、銀婚旅行)発売。

2000年:前立腺がんを発病。以後、闘病を続けながら高座に上り続ける。

2006年:1月5日、池袋演芸場で「日蓮記」を演じ、これが最後の高座に。3月22日午後10時40分死去。享年82。

著書は?

1986年6月 「寄席界隈艶噺」(よせかいわいつやばなし) 三樹書房
1987年7月 「円右のなんともかとも艶噺」 三樹書房
1992年6月 「ちょっと内緒の艶噺」 三樹書房

ついでに

円右師匠の知られざる日常はこちら

初代と二代目の円右についてのエピソードは、こちら

円右のCD

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2005.10.29

三笑亭夢楽

                                                                                                     三笑亭夢楽

夢楽のこと

1925年1月5日、岐阜県生まれ。本名渋谷滉。

五代目古今亭今輔に入門したのが1949年3月。前座名は今夫。
このとき、同年の米丸は入門4年目で今児、
夢楽入門の翌月、米丸襲名で真打昇進。
二歳年長の現・円右は入門三年目で寿輔、二つ目。

2年修行したが、やはり古典をやりたいと今輔に願い出て、
1951年4月、八代目三笑亭可楽門に移る。
ここには当時ただ一人の兄弟子、現・笑三が前座で可寿美。
この人も1925年生まれの同年。

今輔は今夫を連れ、一升瓶を提げて可楽宅に挨拶に。
だから本人いわく、
「あたしは酒一升でトレードされた(笑)」。

あとは順調で、翌5月、夢楽で二つ目。
「むらく」はそれまで九代を重ねるが、亭号は「朝寝坊」で、
いずれもカナ書きだから、「三笑亭夢楽」は正真正銘の初代。

1958年9月、桂小南、桂伸治(十代目桂文治)、春風亭柳昇
四代目春風亭柳好、三遊亭小円馬とともに、
「十把一からげ」で真打昇進。
この6人のうち、小南を除いた5人に
柳家小せん、金原亭馬の助が加わった面々がレギュラーで、翌59年3月、
お笑いヴァラエティ番組のはしり、「お笑いタッグマッチ」(フジテレビ系)がスタート。
この昼帯の30分番組は大人気になり、夢楽ほか7人はたちまち売れっ子に。
これは67年まで続いた長寿番組だった。

28日付の「日刊ゲンダイ」で、吉川潮が、
連載中の「テレビが面白かったあの頃あの人」でこの番組に触れ、
「以上の7人のうち存命なのは、夢楽(80歳)と小せん(82歳)だけになってしまった」
と書いた日に、その夢楽が仲間のもとに旅立ったのも何かの因縁。
かくてとうとう、「タッグマッチ」七人の侍の生き残りは、小せんただ一人に。

大正生まれの落語家

大正生まれの現存の噺家は、事実上引退状態の師匠を含め、

上方落語協会で

桂米朝(1925.11.6生)

笑福亭松之助(1925.8.6生)

関西落語文芸協会で

林家染三(1926.10.8生)

落語協会で

柳家小せん(1923.7.24生)

柳家さん助(1926.8.6生)

落語芸術協会で

桂米丸(1925.4.6生)

三遊亭円右(1923.12.8生)

三笑亭笑三(1925.10.28生)

三遊亭右女助(1925.9.19生)

柳家金三(1926.1.10生)

以上、10人となりました。

若手落語会とは?

劇評家・安藤鶴夫(1908~69)の肝いりで、
「芸術祭男」の異名を取った天才プロデューサー
湯浅喜久治(1929~59)が主宰した
一流劇場のホール落語形式という、
画期的な若手落語家の勉強会。

第1回は1955年1月。

年4回、3か月おきの公演で、
日比谷の第一生命ホールで開かれていました。

同人は協会を問わず、安藤や湯浅がこれと見込んだ
当時の前座、二つ目の有望株で、
親分肌の夢楽は発足当初から、
世話人として参画していました。

初期のおもなメンバーは、
金原亭馬の助(先代)、のちの小南、円楽、志ん朝など。

創立メンバーには、当時19歳だった
柳家小ゑん(現・立川談志)もいました。

1958年12月、若手落語会は昭和33年度の
芸術祭団体奨励賞を受賞しましたが、
翌59年1月、公演直後に、
湯浅が睡眠薬ののみすぎで変死。

夢楽が連絡のない湯浅をアパートに訪ね、
その死体の第一発見者になったことは
安藤の直木賞受賞作「巷談本牧亭」に実名で書かれています。

夢楽は湯浅の遺志を引き継ぐ形で、以後約20年、
若手落語会を主宰し続け、後進の育成に大きな貢献をしました。

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2005.09.19

橘家円喬(四代目)/落語家

橘家円喬

どんな人?

1865年11月9日(慶応元年9月21日):江戸・本所柳原に生まれる。本名・桑原(のち柴田)清五郎。

1872年:7歳で三遊亭円朝に入門。前座名朝太。

1878年:三つ目(二つ目?)に昇進、二代目三遊亭円好と改名。このころ音曲師を志す。

1882年5月:東京を離れ、以後徴兵検査まで約3年、上方で修行。

1888年:帰京。

1887年1月:四代目橘家円喬を襲名。日本橋瀬戸物町の伊勢本で真打昇進披露。         以後、芸の進境はめざましく、長編人情噺、落し噺において、話芸だけなら師・円朝をしのぐとまで言われ、名人の名をほしいままにする。

1912年11月16日:日本橋・末広亭での独演会が最後の高座となる。六日後の同月22日、肺結核のため日本橋玄冶店(当時住吉町、現日本橋人形町三丁目)の自宅で死去、享年47。辞世「筆持って月と話すや冬の宵」。墓所は雑司が谷鬼子母神の法明寺(現・豊島区南池袋三丁目)。

ディスコグラフィー

CD:落語蔵出しシリーズSP盤復刻 コロムビア COCF-14828 「附焼刃」(「半分垢」)

名人中の名人??

小島政二郎(作家、小説「円朝」著者)
「円喬は円朝よりうまい」

六代目三遊亭円生
「(自分が聴いた中で)本当の名人は円喬師だけ」

久保田万太郎(劇作家・作家)
「小島クンは円朝を聴いていないから、そんなことを言う」

円朝の没年、久保万11歳、小島6歳。
円喬の没年、円生12歳。

目くそ鼻くそ。本当に聴いてたのかいな?
かくて伝説は一人歩きする、という次第。

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談洲楼燕枝(初代)/落語家

談洲楼燕枝

どんな人?

1838年:12月2日(天保9年10月16日)、江戸・小石川に生まれる。本名・長島伝次郎。幼名は伝之助。

1856年:初代春風亭柳枝に入門、春風亭伝枝を名乗る。

1861年:12月、初代柳亭燕枝と改名、小石川小日向の服部坂席で真打昇進披露。

1871年:このころ道具入り芝居噺から素噺に転向。

1881年12月:六代目桂文治と共催で、本郷・春木座で初の落語家(シカ)芝居を興行。このころ、三遊派の円朝に対抗して、柳派の頭取として一枚看板に。

1885年:談洲楼燕枝と改名。3月7日:両国・中村楼で嗣号改名披露。

1888年:三遊亭円朝とともに落語界を代表し、政府の肝いりで組織された「演芸矯風会」の評議員に就任。

1890年:柳派頭取を、高弟の三代目春風亭柳枝に譲り、事実上の引退。

1900年:2月11日、動脈瘤破裂のため死去。享年61。辞世「枯れるものの終わりもありて瘤柳」。墓所は浅草・源空寺。

見過ごされがちな名人

三遊亭円朝と、明治の落語界の勢力を二分した大立者で、

人情噺、芝居噺の大家。芸風は男性的で、

武士や侠客の表現に優れていたといいます。

歌舞伎界のボス・九代目市川団十郎と義兄弟の親交を結ぶなど、

各界に幅広い人脈を誇りました。

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禽語楼小さん(二代目)/落語家

禽語楼小さん

どんな人?

1849年:8月(旧暦、日不詳)、日向・延岡に生まれる。本名・大藤楽三郎。代々、延岡藩士の家柄。少年期に高島秋帆に砲術を学ぶ。

年不詳:幕末~明治初期、初代柳亭燕枝(のちの初代談洲楼燕枝)に入門、燕花を名乗る。間もなく師匠の勘気を受け、地方を巡業したあげく静岡に落ち着く。

1876年(80年とも):上京して師匠に許され、静岡で燕静の名で落語家に復帰。

1878年:同年暮れに再度上京、翌年正月から東京の寄席に復帰。二代目春風亭柳枝の弟子分となって燕寿と改名。

1883年:二代目柳家小さんを襲名。

1888年:3月、ひいきの医学博士・松本順に「禽語楼」の号を贈られ、禽語楼小さんと改名。同月、両国・中村楼で改名披露。「禽語」は鳥の鳴き声のことで、小さんの声や語り口が高調子だったことからの命名という。

1895年(97年とも):3月、門弟の柳家小三治に三代目柳家小さんを襲名させ、自らは柳家禽語楼を名乗る。このころから体調すぐれず。

1898年:7月3日死去。享年48。

サムライ噺の名手

明治落語界「反主流派」の巨頭。
人情噺の名人連がずらりとそろう円朝一門に対抗、
同じサムライくずれのポン友・初代三遊亭円遊と組んで、
落とし噺路線を押し通し、現在演じられる多くのこっけい噺の
基本的な演出を確立したエライ人。

サムライ出身だけに武士の表現がうまく、
「目黒のさんま」「将棋の殿さま」「盃の殿さま」などの
殿さま噺を得意にしました。

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三遊亭円朝(初代)/落語家

三遊亭円朝

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2005.09.18

林家三平/落語家

                                                                                                       林家三平

「よしこさぁ~ん、こっち向いてぇ」

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