落語力検定3級対策

2007.01.07

落語力検定3級 第18回 正解と解説

[寄席]

問1

正解:C(歌奴と三平)

三遊亭歌奴は、今の三遊亭円歌。

林家三平は、今の林家正蔵や林家いっ平のお父さん。

当時は、そんな破天荒な人気だったんですね。

[背景]

問2

正解:B(銀)

金、銀、銅貨とも、単位が異なりました。

主に、商取引に用いられたのは銀貨です。
大工など、職人の手間賃も銀建てで支払われました。

基本単位は「匁(もんめ)」。
匁は、同時に重さの単位でもあり、
古くは、銀貨は重量によって貨幣価値が決められました。

このため、秤量貨幣ともいいます。

海鼠(なまこ)銀または丁銀と呼ばれる、大型で楕円形のものと、
豆板銀という、これも楕円形の小型貨幣がありました。
海鼠銀は、表面がデコボコで、一枚四十匁くらい。
豆板銀にも大小があり、一匁から五匁くらいまででした。

しかし、そのつど量って用いなければならないのは、不便です。
そこで、江戸後期には一朱銀、ニ朱銀、一分銀など、
一枚そのままの価値で通用する、定位貨幣が鋳造されました。

一朱銀は小判(金貨)一両の十六分の一、一分銀は四分の一に、
それぞれ通用しました。

伝統的に上方では、特に銀が圧倒的に多く使用され、
江戸で民間に銀貨が流通しだしたのは、こうした定位銀貨が流通し始めてから。
元禄期あたりまで、経済の中心は上方だったため、
江戸でも、中小規模の商業の決済には銀貨が多く使われる慣習が
長く残っていました。

時代劇によく登場する、俗に「切り餅」と呼ばれるものは、
小判型の和紙に、一分銀百枚、二十五両を包んだもので、
ばらさずにそのまま通用し、商取引にはもっとも多く使われました。

江戸の銀貨鋳造は、慶長17(1612)年から京橋新両替町に設けられた
銀座会所で行われ、寛政12(1800)年に日本橋蠣殻町に移りました。
現在の「銀座」の地名は、古い京橋の会所にちなむものです。

金貨は、基本単位が「両」で、主に武士階級で使用しました。
最大のものが十両大判。これは、贈答用にのみ使われ、一般には流通しません。
一両小判は、商業でも大きな取引には用いられましたが、
これもそうやたらとあるものではなく、
小型で長方形の一分金、二分金、ニ朱金の方が、武家、民間ともに多く流通しました。

いやしい町人風情が、やたら小判など持っていようものなら、
問答無用で盗人とみなされ、御用となっても仕方なかったわけです。

銅貨は銭で、単位は「文(もん)」。
これも元は秤量貨幣で、銭千文=一貫文でした。
下層市民の日常生活には、もっぱらこれが使われました。

古くは永楽銭といい、室町時代に明国から渡来の銅銭が多く流通。
江戸時代に入り、寛永通宝が鋳造され、長く使われました。

明和年間(1764~72)には四文銭と呼ばれる真鍮貨、
天保年間(1830~44)に、大型で百文に通用の天保銭も登場しています。

金・銀・銭の換算率は、金一両=銀五十~六十匁=銭四貫(=四千)文が
一応の公定相場でしたが、その時々で変動したため、必ずしも一定ではありません。

[演目]

問3

正解:B(鏡ヶ池操松影)

詳しくは、「江島屋騒動」をごらんください。

本名題を「鏡ヶ池操松影(かがみがいけ・みさをのまつかげ)」といいます。
明治2(1869)年、三遊亭円朝が創作した怪談噺で、全十五席の長講です。

明治中期には、円朝の高弟・四代目三遊亭円生が得意にしていました。

江戸・深川佐賀町の医者、倉岡元庵の後家のお松が
一人娘のお里を連れ、故郷の下総・大貫村に帰ります。

美人のお里は、名主のせがれ・源太郎に見初められ、めでたく祝言のはこびに。

ところが、大枚をはたいて、江戸の芝・日陰町の江島屋という、
大きな古着屋であつらえた衣装が、とんでもないイカモノ。

糊付けしただけの粗製品だったため、
嫁入りの当日、大雨に濡れて、見るも無残に破れます。

恥をかかされたと名主は激怒、婚礼は破談で、哀れお里は入水自殺。

それが、すべての恐怖と呪いの発端でした……。

原題の「鏡ヶ池」は、古く浅草の浅茅原にあったとされる池で、
入水伝説があったところから、この噺の
お里の自殺に引っ掛けたと思われます。

戦後、五代目古今亭志ん生、五代目古今亭今輔が得意にしました。
今輔はマクラで、円生がこの噺のネタを、実在した江島屋の
元番頭から仕入れたと語っていますが、この情報の出自は不明です。

Aの「後開榛名梅ヶ香(おくれざき・はるのうめがか)」は、
通称「安中草三(あんなかそうざ)」で、明治9(1876)年、
円朝が四年の歳月をかけて創作・発表した長編人情噺。

やむなく人殺しをした主人の身代わりで、忠僕の草三郎が入牢。
牢破りして江戸に出た草三郎が、押し込み強盗に入った呉服屋で、
植木職人となっていた主人と再会するという筋立てです。

Bの「業平文治漂流奇談(なりひらぶんじひょうりゅうきだん)」は、
これも円朝・作の人情噺です。

本所・業平村に住む、正義感の強い美男剣客・波島文治郎の、
さまざまな人助けを描いたものです。

実際には、漂流のくだりは、円朝在世中は構想に止まり、
いずれ続編を書くつもりで「漂流奇談」と題したもの。

円朝没後、高弟の円橘が続編「後の業平文治」を創作しました。
罪科に落とされた文治郎が、島送りの船が難破し漂流。
七年の艱苦の末、江戸に帰った文治郎が、師匠の仇を討つまでを描きますが、
作品として、あまりいい出来ではありません。

A、Bとも、晩年の志ん生が好んで演じました。

[噺家]

問4

正解:C(入船亭扇橋)

入船亭扇橋は、1931年5月29日、東京・青梅生まれ。
本名・橋本光永。

飯能高校卒業後、1957年12月、三代目桂三木助に入門。前座名・木久八。
1958年5月1日、横浜・相鉄演芸場で「寿限無」を演じ、初高座。
1961年1月、三木助没後、同年5月、五代目柳家小さん門に移り二つ目昇進。
柳家さん八と改名。
1970年3月、真打昇進。九代目入船亭船橋を襲名。
1982年12月、 文化庁芸術祭最優秀賞
1983年、芸術選奨文部大臣新人賞

飄逸な芸風で、多くのファンを持つ扇橋。
落語通をうならせるその渋い芸風は、枯淡の俳味に通じるでしょう。

中学時代から句作に才能を示した扇橋は、今や日本有数の俳人でもあります。

その原点は、1968年1月、柳家さん八時代に自ら主催した「東京やなぎ句会」。
同会は、落語家仲間にとどまらず、多士済々の文化人が集い、
オトナの文化サロンとして注目されています。

常連メンバー(俳号)は入船亭扇橋(光石)、永 六輔(六丁目)、大西信行(貘十)、
小沢昭一(変哲)、永井啓夫(余沙)、柳家小三治(土茶)、矢野誠一(徳三郎)など
錚々たる顔ぶれ。ほかに加藤武、桂米朝、故人では江國滋、三田純市、神吉拓郎。

メンバーの変哲こと小沢昭一は、2005年6月、新宿末広亭上席に特別出演した際、
「やなぎ句会」の扇橋について、

「宗匠といったって、題出すだけなんですよ。(笑)蔭では題出しと
言ってるんですけどね。(笑)何言われても温厚な方です」

と、述べています。

「やなぎ句会」は、1999年3月、メンバーの共著で、
「友あり駄句あり三十年―恥多き男づきあい春重ね」
を、日経新聞社から上梓。

草創期からの足取りや、同人間の交流など、会の全貌を紹介しています。

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落語力検定3級 第18回 出題

[寄席]

問1

昭和33(1958)年4月、
テレビで人気を得た二つ目の噺家が2人、上野鈴本演芸場でトリをとる、
という前代未聞の珍事が起こりました。それはだれ?

A:円楽と談志
B:志ん朝と小三治
C:歌奴と三平

[背景]

問2

江戸時代の通貨は複雑です。
金(きん)、銀(ぎん)、銭(ぜに)が同時に流通していたからですが、
これらは主に、階層によって使い分けられていました。
では、商人が取引で使うための貨幣は?

A:金
B:銀
C:銭

[演目]

問3

「江島屋騒動」という人情噺。
これは、円朝の作品ですが、
正しくは、なんという題でしょうか?

A:後開榛名梅ヶ香
B:鏡ヶ池操松影
C:業平文治漂流奇談

[噺家]

問4

「光石」の俳号をもつ噺家は?

A:柳家小三治
B:桂文朝
C:入船亭扇橋

※3問以上の正解だと、なかなかのものですね。
                                                                                            正解と解説

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落語力検定3級 第17回 正解と解説

[寄席]

問1

正解:B(文楽、志ん生、円生、小さん、桃太郎)

東京の民放ラジオ第一号はラジオ東京(現・TBS)で、
1951年12月24日放送開始。

ついで日本文化放送協会(現・文化放送)が1952年3月31日、
ニッポン放送が1954年7月15日のスタートです。

当時は放送する娯楽のソフトが乏しく、
ギャラが安く、手間いらずで茶の間に笑いを供給できる落語は、
これら新興ラジオ局の目玉でした。
売れっ子落語家は、たちまち取り合いになりました。

既存のNHKを除けば、開局がもっとも早かったTBSが
最初に巨匠連の囲い込み、つまり専属制に踏み切ったわけです。

昭和20年代、売れに売れたのは、まず爆笑王・三遊亭歌笑。
ただ、不幸にも、1950年に事故死し、
民放の「果実」にあずかれずじまいでした。

民放発足後は、若手で歌笑に代わって台頭してきた柳亭痴楽、
戦前からの新作派の初代柳家権太楼、七代目林家正蔵、昔々亭桃太郎。
古典の大看板では三代目金馬、五代目志ん生、六代目柳橋、
三代目三木助など、どちらかというと
笑いが多く取れる落語家が、ラジオ時代のスターになりました。

やはり、ラジオ向きに、明るい芸風が好まれたのでしょう。

柳橋、三木助はNHKが押さえていたため、
TBSは志ん生に目をつけ、1953年7月、専属にします。
同時に本格派の文楽、円生、襲名し立ての小さん、
柳家金語楼の実弟・昔々亭桃太郎も専属になりました。

ただ、争奪戦は激しく、古典派で最大の「目玉」だった
三代目金馬は、後発の文化放送にさらわれ、
志ん生もまた、翌1954年7月、開局早々のニッポン放送に
引き抜かれるハメとなりました。

[背景]

正解:B(高砂や)

詳しくは、「高砂や」をごらんください。

これは、少し「難問」だったかも知れません。

「高砂や」は、長屋の八五郎が、伊勢屋の若だんなの婚礼に、
ひょんなことで仲人を頼まれます。

婚礼の儀礼や、仲人の心得など、何も知らない八っあん、
大あわてで隠居のところへ聞きに行きます。

大汗かいて、何とか生かじりで迎えた披露宴当日。
にわか仲人の悪戦苦闘が笑いを誘う、罪のない噺です。

この噺では、棒手振りの豆腐屋は、実際に登場するわけではありません。

八五郎が隠居に、当時の婚礼に付き物である、
「高砂」の謡を教わるくだりがあります。

時代劇などにたまに登場する、
「たかさごや このうらふねに ほをあげて……」
という、朗々とした祝いの謡ですね。

当人、その発声がどうしてもできず、
壊れたクラリネットのような奇声になってしまうので、
まず、小商人の売り声で発声練習。
そこでまず、「とーふとーふー」とリハーサルするわけです。

笑えるのは、本番でももったいぶってまず「とーふー」とやるくだりです。

豆腐屋が主役、または重要な役どころで登場する噺は、
「鹿政談」「千早振る」「寝床」「釜泥」「こうふい」など、
けっこうあります。

ただ、それらはすべて、表通りに店舗を構えていて、
棒手振りの豆腐屋となると、あまり出てきません。

わずかに目立つのは、「小言幸兵衛」で、最初に空店を借りに来る男。
これが豆腐屋で、えらく乱暴な口をききます。
あげく、子供が産めない今のかみさんと別れなければ
店は貸せないと、大家の幸兵衛に言われてかっとなり、
さんざん毒づいて帰ってしまいます。

実際に商売する場面はないものの、裏長屋を借りに来るわけですから
この男は棒手振りでしょう。

もうひとつ、面白いのは「湯屋番」です。
冒頭で、勘当の身の若だんなが、居候先のかみさんの悪口を言う場面。

横丁に豆腐を買いに行かされ、出掛けに棒手振りの豆腐屋が来たので
これ幸いとそれから買って無精を決め込みますが、
売りに来る豆腐はやわらかくてすぐ崩れるので、
たちまちバレるというお粗末。

実際に、安物で手を掛けていない豆腐は、原料その他の違いで
そういうこともあったのでしょう。

棒手振りの売り声は、戦後の昭和30年代まで、東京の街の風物詩でした。
「ぼて」は「ぼうて」の縮まったもので、天秤棒のこと。
「振り」は「触れ売り」の意味です。

江戸では、棒手振りは最初は魚屋のみを指しましたが、
のちにはかぼちゃなどの野菜、金魚売りなど、小商人全般の呼称になりました。

さまざまな職種の大道商人が、独特の売り声を張り上げて、
山の手、下町を問わず、町々の津々浦々を流して歩いたものです。

「町々の時計になれや小商人」という雑俳が残るとおり、
それぞれ売りに来る時間は決まっていて、豆腐売りは早朝でした。

「高砂や」にも出てきますが、「とうふとうふー」と二声で、
ゆるやかにうたうのが一般的だったようで、
ラッパに変わったのは、明治以後でしょう。

四代目古今亭今輔(1886-1935)は、美声で、
小商人の売り声の模写が、たいへんに巧かったそうです。

[演目]

正解:A(鈴ふり)

詳しくは、「鈴ふり」をごらんください。

五代目古今亭志ん生が一手専売にした、エロ噺です。

天下御免の志ん生も、さすがに寄席ではやれず、
特別な会か、お座敷でしか聴けない珍(チン?)品でした。
ただ、堂々とレコードには吹き込んでいます。

舞台は東海道・藤沢の名刹・遊行寺。
時宗の総本山として知られています。

この寺で、住職の跡継ぎを決めることになりますが、
千人もの弟子の中で、誰を選ぶべきか、大僧正も途方にくれます。
そこで、苦肉の策として考え付いたのが、なななな、なんと、
一人一人のアソコに鈴を……。

奇想天外なオチがうならせます。

噺の筋とは別に、「黄金餅」のそれと並んで
志ん生の二大言い立てとして名高いのが、
「鈴ふり」の十八壇林の言い立てです。

大僧正になるためには、関東の浄土宗で定められた
十八寺で修行しなければならず、その順番を、
立て板に水で並べます。

下谷の幡随院から始まり、芝の増上寺でめでたくゴール。
ただし、十八壇林は遊行寺とは宗旨が違うので、
単に、マクラで修行の厳しさを説明するためだけのものです。

志ん生は、艶笑噺の持ちネタは、意外に少ない人で、
主にやったのはほかに「羽衣」と、「義眼」くらいでした。

Bの「怪談乳房榎」は、三遊亭円朝・作の長講の怪談噺。
「乳房榎」は、ラストに登場する、練馬・赤塚村の松月院境内の大榎。
幹のウロに、乳房の形をしたコブがついていて、
そこから甘い露が滴り落ちているという、いわくつきの大樹。

どんな腫れ物でも、この露を患部に塗ると必ず治るという、
霊験あらたかなもので、
エロとはまったく関係ありません。

Cの「寝床」は、八代目桂文楽の十八番。
だんなが、下手くそな義太夫を店の者や長屋の連中に
無理やり聴かせ、途端の苦しみを味わわせるという、
おなじみのお笑いです。

「バレ」の語源は「バレる」で、発覚する・露見するの意味。
転じてワイセツ、みだらなこと。
淫乱な女性を「バレ(発)女」ともいいました。

本来は隠していなければならないことどもを、
大っぴらに、青天下に披露してしまうことから
艶笑噺やワイ談にその名が使われたものでしょう。

[噺家]

問4

正解:B(都家歌六)

都家歌六(みやこや・うたろく)は、1930年7月25日、名古屋市生まれ。
本名・真野良夫。

1951年3月、三代目桂三木助に入門、前座名・桂三多吉。
1954年10月、木多蔵と改名、二つ目昇進。
1956年5月、四代目三遊亭円遊門下に移り、万遊と改名。
1969年10月、八代目都家歌六を襲名、真打昇進。

1982年、それまで高座の余芸でやっていたのこぎり演奏を
正式に本芸とし、以来四半世紀、寄席でただ一人の
ミュージカル・ソー「演奏家」として一家を成しています。
1996年には、コロムビアからCD「都家歌六 究極ののこぎり音楽」
も、リリースしました。

ノコギリ演奏は、古くから欧米では愛好家が多く、
日本には明治時代に伝来し、大正時代に一度流行しました。
戦後復活し、歌六らの紹介で、最近は日本でも、趣味にする人が増えています。

刃引きの西洋ノコギリを、ヴァイオリンの弓または
マレットと呼ぶバチでこすり、音を出すもので、
中国の胡弓に似た、独特の音色が特色です。

歌六はまた、落語のSPレコード収集でも知られ、
著書「落語レコード80年史」(1980年、国書刊行会)は、
落語の古い音源をたどる上で、きわめて貴重な資料です。

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落語力検定3級 第17回 出題

[寄席]

問1

昭和26(1951)年、民放ラジオが誕生。
28(1953)年には、ラジオ東京(のちのTBS)が
5人の噺家と専属契約を結びました。
その5人とは?

A:文楽、志ん生、円生、小さん、正蔵
B:文楽、志ん生、円生、小さん、桃太郎
C:文楽、志ん生、円生、三木助、正蔵

[背景]

問2

落語にはよく、
天秤棒で荷を担いで町中を売り歩く「棒手振り(ぼてふり)」が登場します。
以下の噺の中で、豆腐売りの棒手振りを描いたものは?

A:芝浜
B:高砂や
C:位牌屋

[演目]

問3

ちょっと色っぽい「艶笑噺」。「バレ噺」ともいいますが、
以下の噺の中で、明らかに艶笑噺といえるものは?

A:鈴ふり
B:怪談乳房榎
C:寝床

[噺家]

問4

最近はもっぱら、高座でのこぎりを弾くのはだれ?

A:桂歌丸
B:都家歌六
C:春風亭小柳枝

※3問以上の正解だと、なかなかのものですね。
                                                                                                  正解と解説

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2006.11.11

落語力検定3級 第16回 正解と解説

[寄席]

問1

正解:A(60人)

昭和23(1948)年には、
東京落語協会で37人、芸術協会で23人の噺家がいたそうです。

こんなものだったのですね。
いまの数とは、えらい違いです。

ただし、寄席に出られない噺家として、
東宝名人会の専属が7人。
三遊亭金馬(三代目)なども、入っています。

これを含めると、67人ということになります。
それでも、少ないですね。

[背景]

問2

正解:C(新宿)

詳しくは、「文違い」をごらんください。

六代目三遊亭円生が得意にしました。

新宿遊郭は、品川、千住、板橋と並び、
四宿(ししゅく=非公認の遊郭)の一。

飯盛女の名目で遊女を置くことが許された「岡場所」で、
江戸時代は建前上、遊郭は旅籠(はたご)屋でした。

女も吉原のように「源氏名」は許されず、
この噺の女郎も、「本名」で登場します。

新宿は正式には「内藤新宿」で、甲州街道の最初の宿場です。

信濃高遠三万三千石・内藤駿河守の下屋敷があったことから、
こう呼ばれました。

宿場設営は元禄11(1698)年までさかのぼり、
新宿追分(現在の新宿二丁目)を中心に発展。

関東大震災後、新宿は山の手のターミナル駅として開発され、
昔ながらの遊郭は次々に姿を消しました。

そのわずかな名残が、1958年の売春禁止法施行まで存在した
二丁目の「青線地域」です。

明治末期には、「東京府下豊多摩郡内藤新宿大字角筈」が正式な地名。

遊郭は、今の伊勢丹付近から、新宿御苑正門まで続いていました。

明治以後は、遊郭全体が塀で囲われました。

豊倉、新金、大万などが新宿の大店でしたが、
一歩廓外に出ると、田舎で、今の歌舞伎町などは、田畑だったそうです。

新宿を舞台にした噺は少なく、
ほかに「四宿の屁」「縮みあがり」くらいです。

[演目]

問3

正解:B(付き馬)

詳しくは、「付き馬」をごらんください。

吉原でさんざん遊んだあげく、勘定が払えなくなった男。
「金持ちのおじさんがいるから、すぐ倍増しで払う」
と、廓の若い者を付き馬(=取立て人)に連れ、浅草へ。

図々しい奴で、朝飯代から銭湯代から、
何から何まで若い衆に立て替えさせてしまいます。

さすがに、堪忍袋の緒が切れかけたところで、
男が伯父宅といって案内したのが、田原町の早桶(=棺桶)屋。

ちょいと交渉してくると中に入りますが……。
五代目古今亭志ん生の高座から、その場面を再現します。

男:「(大声で)どうもごぶさたいたしまして、おじさん、
お願いがあってきたんでございますが、おじさん」
親方:「大きな声だな。当たり前の声をしておくんなさいよ、なんです?」
男:「(かまわず大声で)あすこにおりますあの男の(急に声を低めて)
兄貴がゆうべ、腫れの病で死にましてな、へえ、肥っているところィ
腫れの病ですからね、普通の早桶じゃ間に合わない。図抜け大一番
小判型ってえんですがね、どこィ行っても断られちゃうン。(中略)
それをひとつゥ、(大声)おじさんのとこへ頼みにきたんですがね」
親:「ふうん、そうかい、うん(考えて上手奥へ)おゥい、どうだい?
うん、そうかァ? うん、気の毒だなァ。(客に)じゃァこしらえてやろう」
男:「(大声で)あ、こしらィ……」
親:「大きな声で……当たり前でいいよ、うん」
男:「じゃこっち(下手を向いて若い者を招く)おい、こっちおいでよ。これ
おじさん、え? おじさんだよ。うん、おじさんね、こしらィてくださるッて、
いいかい? (上手へ)おじさんこしらえてくれますね? うんじゃあ
できましたら、この男に渡してやってください。君、出来たら受け取っといて…
おじさん出来ましたらこの男に」

で、ちょいと買物があるといって、まんまと逐電。
このあと、残された若い衆と親方の、
かみあわない、トンチンカンなやりとりが始まります。

若い衆に聞かされないウソ話はヒソヒソ声、
「おじさーん」「こしらえて」というところだけ急に大声、
という緩急自在。

若い衆を呼んでからは、、二人にしゃべらせてボロが出ないように、
やたら「おじさん、おじさん」の連発。
このあたり、活字だけでは到底表現できないおかしさで、
落語の醍醐味があふれています。

志ん生、三代目金馬、近年では文朝と、
それぞれ抱腹絶倒、見事なイキでした。

遊興費を踏み倒した客への取り立ては、もともと
その客を、馬を引いて吉原に連れてきた馬子の責任で、同時に副業でした。
「付き馬」の名は、これに由来します。

この噺のように、遊郭の若い者が付き馬として
客に同行するようになったのは、かなり後年のことです。

江戸時代、棺桶は粗末な座棺で、
死者が出た時に、間に合わせで急いで作るところから
早桶の名があります。

早桶屋はしたがって、今日の葬儀社と棺桶製造業者を兼ねていたわけです。
別名を早物屋ともいいました。

[噺家]

問4

正解:A(川柳川柳)

川柳川柳(かわやなぎ・せんりゅう)は、1931年3月3日、埼玉県秩父郡生まれ。
本名・加藤利男。

1955年7月、六代目三遊亭円生に入門。前座名・さん生。
1958年9月、同名で二つ目昇進。
1974年3月、同名のまま真打昇進。
1978年6月、円生一門の落語協会脱退騒動のおり、一人一門を離れ、協会残留。
五代目柳家小さんの預かり弟子となって、川柳川柳と改名。

円生の二番弟子で、一番弟子の円楽とはわずか半年遅れの入門。
年齢もさん生がニ歳年上なのに、その奔放な芸筋が師匠にハマらず、
かわいがられた円楽に比べ、とかくうとんじられたようです。

真打昇進も、入門二十年目、43歳というスロー出世。
円楽からは何と12年遅れ、弟弟子で他門から移籍の
円窓、円弥にも抜かれました。

当時会長の小さんはさん生の資質を認め、真打にするよう勧めましたが、
「あれは色物の芸」と円生は頑として認めなかったといいます。

脱退騒動のときは、協会残留を希望したため破門となって、
芸を認めてくれた、その小さん門に身を寄せました。
一説には、円生宅から出た瞬間「バンザーイ」と叫んだとか。

川柳となってからは、新作派として大ブレーク。
自作「ガーコン」のヒットで、遅咲きの花を咲かせました。

この人でなければという根強いファンも多く、
70代半ばを越した今でも、笑いのエネルギーは衰えていません。

実生活では奇人として知られ、現・二代目快楽亭ブラックが
人情噺「芝浜」をハチャメチャに改作した
「川柳の芝浜」のモデルでもあります。

得意ネタは ほかに「ジャズ息子」「パフィーでGo」「テレビグラフィティ」
「映画やぶ睨み」など。すべて自作自演。

著書に「天下御免の極落語」があります。

Bの快楽亭ブラックは、1969年2月、立川談志に入門。立川ワシントン。
桂三枝門に移籍後、79年11月、二つ目で談志門に復帰。
立川「談トン」「カメレオン」「レーガン」「丹波守」、「英国屋志笑」
立川「世之介」「小錦」、「快楽亭セックス」「立川平成」と
メチャクチャな改名を繰り返したあげく、
92年9月、二代目快楽亭ブラックを襲名。真打昇進。

2005年6月、多額の借金を理由に立川流を破門の身で、現在フリーです。

Cの五街道雲助は、1968年2月、十代目金原亭馬生に入門、金原亭駒七。
72年11月、五街道雲助で二つ目。81年3月、同名で真打昇進。
2001年、落語協会理事に就任。

今や、押しも押されぬ大看板。名人の風格さえ漂わせます。

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落語力検定3級 第16回 出題

[寄席]

問1

昭和23(1948)年当時、噺家は何人いたでしょうか?

A:60人
B:120人
C:240人

[背景]

問2

女郎屋を舞台に男女の機微を描いた「文違い」。
どこの女郎屋でしょうか?

A:板橋
B:品川
C:新宿

[演目]

問3

「おじさーん」
というせりふが出てくる噺は?

A:黄金餅
B:付き馬
C:寝床

[噺家]

問4

六代目三遊亭円生にあこがれて入門したのに、
しくじって、五代目柳家小さんに師匠替えした噺家は?

A:川柳川柳
B:快楽亭ブラック
C:五街道雲助

※2問以上の正解だと、なかなかのものですね。

                                              正解と解説

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2006.11.05

落語力検定3級 第15回 正解と解説

[寄席]

問1

正解:B(古今亭志ん生)

昭和20(1945)年4月14日未明の空襲で、志ん生一家は
芝・神明町の貸家を焼け出されました。

猛火の中を何とか生き延びたものの、寄席はみな焼け、仕事などない状態でした。
まもなく贔屓の世話で、駒込の動坂(現・文京区千駄木)に転居。

そこへ、 満州の戦地慰問の話がきます。
陸軍省恤兵(じゅっぺい)部の嘱託で、松竹が請け負った慰問団でした。

ヤケになっていた志ん生は、この話に飛びつきます。

当人は、後年「酒がふんだんにのめるから」と動機を語っていますが、
気の小さい志ん生が、空襲で死の恐怖に取りつかれた、
というのが真相のようです。

何せ、食糧がたっぷりあって酒ものめて、やりたい噺がやれて空襲もない。
おまけに支度金三千円、給金がアゴアシ付きで月百五十円、 身分は陸軍軍属で
少佐待遇。お座敷の仕事も取り放題という、結構づくめの話。

志ん生は家族に相談しますが、結局5月5日(6日説も)に出発と決定。
当時二つ目の長男・馬生は、押し切られてしぶしぶ同意したとか。 

志ん生は、せがれの方が積極的に勧めたと、後年言っていますが、
どうも、あやしいものです。

家族にすれば、生活の面では戦時下に大黒柱がいなくなり、当然不安です。
当時、日本海には米軍の魚雷がウジャウジャ。無事で帰れるとは思えません。
ただ、空襲下なのに酒ばかり食らっている志ん生は、
かえって足手まといだったのも確かでしょう。

メンバーは、落語はほかに古今亭今輔が同行の予定が、
今輔が行けなくなり、三遊亭円生に代わります。
講談の国井紫香、団長で漫才の坂野比呂志らもいっしょでした。

円生は、そのころ芸に行き詰まっていて、環境を変えて現状を打破したいという
こちらは、まじめな動機。

1か月で帰国の予定でした。

新潟から白山丸という船で、50時間かかって朝鮮の羅津に渡る行程。
ところが、出航直後にひどいシケ。
横波を食らった救命ボートの綱が切れ、船腹にぶつかったのを
魚雷と間違えて船内はパニックに。

志ん生も観念して、焼酎をあおっていたそうです。

三日後、予定の羅津より南の清津へ入港。鉄道で新京(現・ 長春)へ。
新京は、満州国(当時)の首都でした。

一行は翌日から、奉天、北上して吉林、延吉、牡丹江、ハルビンと慰問・興行。
7月5日、新京に戻りますが、日本へ帰る船がありません。
待機するうち、新京の放送局の仕事で、一週間ほど巡業。
その間、志ん生は落語そっちのけ。酒とバクチに明け暮れていました。

志ん生、円生二人会を頼まれ、二人は8月1日、奉天へ出発しますが、
着いた当日、8月8日にソ連が対日宣戦布告。
翌日、赤軍は国境を越えてなだれこみました。

奉天で足止めされ、13日に大連着。13、14日、常盤座という映画館で二人会。
志ん生が「居残り佐平次」「錦の袈裟」、円生が「三人旅 」「三十石」。
志ん生のは二席とも、内地でやればたちまち御用という、廓噺です。
まあ、破れかぶれでしょう。

8月15日終戦。契約先の満鉄経営の「満芸」はつぶれて慰問団は解散し、
二人は路頭に放り出されてしまいます。

それからは苦労の連続でした。
宿を追い出され、大連の観光協会事務所の二階に間借りします。

8月22日、ソ連軍がいよいよ大連に進駐。
二人は略奪と強姦のさなか、死と隣り合わせの恐怖を味わいます。
志ん生が、ソ連兵に「火事場どろぼうめっ」とどなって、
銃剣で突き殺されそうになったことも。

明治天皇の肖像の前で一席やり、客に泣かれてメチャクチャになったという
エピソードも残っています。

志ん生はそれでも能天気で、ソ連軍に襲われたら、
酒を飲ませて酔っ払わせると暢気なもの。

抑留日本人のお座敷で露命を保った二人ですが、
志ん生は雪の日に、かみさんの心づくしの毛糸のシャツと
酒二升を交換してしまい、石鹸箱まで75銭で売り払う始末でした。

酒屋やおでん屋の払いもできず、ソ連軍に引き渡すと脅されると、
さすがの志ん生もこたえたのでしょう。

「いつ殺されるかわからないところへもって来て、ゼニはないし、
寒くってしょうがないし、迎えの船なんぞいつ来るかわかりゃァしない」
(自伝「びんぼう自慢」)

ウォッカのビンを6本ラッパのみして「自殺」をはかります。
青酸カリをもらいにいきましたが、ないと断られたためとか。

普通ならたちまちあの世行きのところ、人間ばなれした内臓で、
夜中に奇跡的に蘇生、という一席でした。
もっとも、円生によると「自殺するようなヤワな人間でない」ので、
当人の、面白がらせるためのヨタ話でしょう。

結局、一年半をかろうじて生き延びた二人。
昭和22(1947)年が明け、ようやく志ん生に引き上げ許可が出ます。
志ん生だけが先になったのは、「生活が逼迫している」者を優先させたからで、
まじめで仕事もあった円生は、二ヶ月待たされました。
人間、何が幸いするか分かりません。

志ん生が着の身着のままで、唐津に着いたのが、47年1月12日。
直前に「27日カヘル サケタノム ミノベ」と、
留守宅に打電しようとしました。

いかにもこの人ならではですが、不謹慎だと係の役人にお目玉を食らい、
あげくに「サッポロニツク」と、ウソの嫌がらせ電報を打たれてしまいます。

それやこれやで、ようやく1月27日帰京。
志ん生は、早くも2月1日、新宿・末広亭上席から高座に復帰しました。

敗戦に打ちひしがれ、笑いに飢えていた観客は、
久々に聴く、独特のギャグまたギャグの連続に、落語の楽しさを満喫。
死んだという噂が流れていた志ん生の復帰は、大歓迎を受けました。

志ん生もまた、戦中のうっぷんを晴らすように、気迫ある芸を展開しました。
抑留中の苦難が血肉になり、芸に一回り厚みが増したと評判でした。

志ん生人気の沸騰とともに、寄席も活気を取り戻します。
落語界の戦後は、ここから始まったといえるでしょう。

二人の満州体験をもとに、井上ひさしが戯曲「円生と志ん生」を執筆。
2005年2月、こまつ座第75回公演として、紀伊国屋ホールで初演されました。
志ん生には角野卓造、円生には辻萬長が、それぞれ扮しています。

[背景]

問2

正解:B(百川)

詳しくは、「百川」をごらんください。

「百川」は、日本橋浮世小路(現・中央区日本橋室町二丁目)に実在した
江戸懐石料理の名店・百川が宣伝のため、
実際に店で起こった事件を落語化し、創作させたといわれます。

ある日、葭町(よしちょう)の桂庵(けいあん)千束屋(ちづかや)から、
百兵衛という新規の抱え人が送られてきます。

まるっきり、山だしの田舎者ですが、
たまたま、座敷で手が鳴ったとき、女中がみな結髪中。
困っただんな、新参の百兵衛に御用を聞きにやらせます。

これが間違いのもと。

祭りに必要な四神剣(四神旗)を質入してしまい、もめていた町内の連中、
てっきり百兵衛を、隣町の使いで、四神剣の返却を催促に来たと勘違い。

どんどんボタンが掛け違い、百兵衛と江戸っ子連の、
トンチンカンな問答が笑わせます。

百兵衛の田舎なまりが原因の、言葉の食い違いが
ストーリー展開に巧みに生かされています。

Aの「鉄拐」は、中国が舞台の珍しい噺です。
道教の「八仙人」の一人・李鉄拐が、法術を駆使して一躍大スターダムに。
立川談志が得意にしています。

Cの「三十石」は、上方に古くから伝わる旅の噺。
大坂と伏見を結んだ「三十石船」の船中で起こるドタバタ騒動です。

[演目]

問3

正解:C(火焔太鼓)

詳しくは、「火焔太鼓」をごらんください。

恐妻家の道具屋・甚兵衛が、たまたま仕入れてきた
ゴミ同然のむさい太鼓が、実は国宝級の代物。
何と赤井御門守さまに、三百両でお買い上げになり、
甚兵衛、あまりのうれしさに腰を抜かします。

おなじみ、五代目古今亭志ん生十八番の爆笑編。

最後に、甚兵衛がかみさんにこれでもかと金をたたきつけ、
かみさんが逆にひっくり返るところがクライマックス。
志ん生独自の掛け合いの面白さ、立場が逆転する痛快さが秀逸です。

実際の火焔太鼓は、舞楽で用いる大太鼓です。
左右一対、馬革張りで、鼓面だけで直径六尺三寸(約190cm)、
全体の高さは一丈(約3m)というというお化け太鼓。
とうてい一人で持ち運べる代物ではありませんが、
そこが「落語の嘘」です。

題名は、周囲の火焔(炎)の装飾から名づけられたもので、火事とは関係ありません。

Aの「火事息子」は、江戸に古くから伝わる人情噺です。
火事好きが高じて家を飛び出し、行方知れずになった若だんな。
ある火事の晩、がえん(大名火消し)となったわが子と再会した父親は、
心とは裏腹に、勘当したせがれに用はないと片意地を張ります。

親子の情愛をしみじみと描いた佳編で、八代目林家正蔵(彦六)が
滋味のある語り口で泣かせました。

Bの「富久」は、八代目桂文楽の十八番。
酒乱がたたって、だんなをしくじった幇間の久蔵が
お店が火事というので、おっとり刀で駆けつけ、再びお出入りがかないます。

店は類焼を免れますが、同じ晩に今度は自分の家が全焼。
買ってあった千両富の当たりくじも、あえなく灰になります。
狂乱する久蔵ですが、最後はハッピーエンドに。

凍てつく冬の夜を背景にした、名作人情噺です。

[噺家]

問4

正解:C(古今亭円菊)

古今亭円菊は、1929年4月29日、静岡県島田市生まれ。本名・藤原淑。

島田商業高校を卒業後、1953年7月、五代目古今亭志ん生に入門、前座名生次。
1957年3月、むかし家今松と改名、二つ目に昇進。
1966年9月、二代目古今亭円菊を襲名し、真打昇進。

24歳と遅い入門で、下積みの苦労を重ねました、
努力の末、なまりの克服の過程で得た、独特のイントネーションで開花。
師・志ん生の介護を原体験に、ボランティア活動にも精力を注ぎます。

「手話落語」は、そうした社会奉仕の一助として、
ろうあ者も落語が楽しめるよう、円菊が1975年に考案したものです。

そうした社会貢献が認められ、円菊は、
81年に厚生大臣賞、82年に法務大臣賞、91年に東京都功労賞
を、受賞しています。

以来30年にわたり、全国の老人ホームや刑務所の慰問を続け、
96年には刑務所篤志面接理事の資格も取得しました。

円菊とは別に、大阪の桂福団治も1979年、
自らののどの疾患をきっかけに、独自の手話落語を考案。
一方のパイオニアになりました。

1980年代以後、円菊、福団治の努力により、手話落語は、
折からの手話ブームもあって全国に広がりました。

現在は、円菊一門、福団治一門を中心に、
手話落語を手掛ける若手落語家も増えています。
2006年には、人気落語家の九代目林家正蔵が挑戦、話題になりました。

中でも、福団治門下の桂一福は、聴覚障害者で初のプロ落語家として、
手話落語をライフワークとして取り組んでいます。

さらに一福は92年には「聞こえない」意味の「デフ」と改名、
海外での紹介を含め、献身的に手話落語の普及に努めています。

円菊の蒔いた種は、やっと花を咲かせつつあるといえるでしょう。

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落語力検定3級 第15回 出題

[寄席]

問1

昭和21(1946)年、ある噺家が満洲から帰ってきます。
新聞にも報じられるほどでした。
落語界がにわかに活気づいた、その噺家とは?

A:三遊亭円生
B:古今亭志ん生
C:柳家小せん

[背景]

問2

次の中で、お江戸・日本橋が舞台となる落語は?

A:鉄拐
B:百川
C:三十石

[演目]

問3

次の中で、火事とは無関係の落語は?

A:火事息子
B:富久
C:火焔太鼓

[噺家]

問4

かつて、手話落語を得意としていた噺家は?

A:三遊亭金馬
B:入船亭扇橋
C:古今亭円菊

※2問以上の正解だと、なかなかのものですね。

                                                         正解と解説

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2006.11.03

落語力検定3級 第14回 正解と解説

[寄席]

問1

正解:C(人形町末広)

日本橋人形町かいわいは、下町でも、かろうじて戦災を免れた
数少ない地域です。

新宿・末広亭、神田・立花、上野・鈴本など、
東京の一流の寄席はあらかた、
昭和20(1945)年の空襲で焼け落ちました。

人形町末広だけが焼け残りました。

1945年9月、24歳の柳亭痴楽(四代目)の、
戦後最初の真打昇進披露が行われました。

残るおもな席も、翌年から続々再建、営業を開始。

現在も新宿末広、上野鈴本は健在ですが、
神田須田町の立花は昭和30(1955)年11月に廃業しました。

関東大震災、戦災も乗り越えた幕末以来の老舗・人形町末広でしたが、
惜しまれつつ昭和45(1970)年1月中席を最後に廃業しました。

現在、地下鉄・人形町駅北側、「読売インフォーメーションサービス・ビル」
の右隅に「寄席 人形町末広跡」の碑が、ひっそりと建っています。

[背景]

問2

正解:A(町役)

江戸の町は、現在とはもちろん異なりますが、一種の自治制でした。

幕府の官僚機構はそれほど緻密でなく、身分制度の壁もあったので、
町人のことはなるべく町人に、という方針だったのです。

南北町奉行の支配下に町年寄(まちどしより)、
その配下に町名主(まちなぬし)があります。
これが実質上、江戸の町政を支配していました。

今でいえば、町年寄が都知事、町名主が都会議員というところ。

ちなみにこれは、江戸だけの制度ではなく、
京、大坂、名古屋、堺の大都市を始め、長崎、甲府、敦賀、小浜など、
天領の中小都市でも、ほぼ同じ形態でした。

町年寄は、家康江戸入府(1590年)にしたがって江戸入りした
樽屋、奈良屋、喜多村の三家で、幕末まで代々世襲でした。

三家とも先祖は、三河以来、家康のもとで戦功をたてた武士。
その功で、江戸の最初の町割りで、日本橋本町に角屋敷を拝領した
由緒ある家柄です。

町名主は、やはり世襲で、260家ほどでした。
年寄・名主は町政のみに従事し、副業を禁じられていました。

年寄・名主の下に、家持と呼ばれる地主がいて、
長屋などの家作を持っています。

これが区会議員、町会議員にあたるでしょう。

家持の家作の管理人が、落語でいう大家、正式には家主(差配とも)です。

大家は町内ごとに五人組を作り、
月番交代で「月行事(がちぎょうじ)」になります。
月行事が町会長、五人組が町会役員の役割です。

よく落語のお白洲場面などで、「町役・五人組同道のうえ……」
と、出てきますね。

以上が江戸の自治組織のピラミッドで、
町名主・家持・月行事・五人組・を併せ、町役人または町役といいました。

この場合、ややこしいですが、町年寄、町名主は「まち」。
町役人は「ちょう(やくにん)」と読み、区別します。

簡略にすれば、老中→若年寄→町奉行→町年寄→町役(人)という支配関係です。

町役の仕事は多く、幕府の法令の伝達・徹底、租税の徴収、
人別(戸籍)改め、紛争仲裁、防犯・防火などを行いました。

以上のすべてを町年寄が統括し、責任を負うとともに、
奉行所、ひいては幕府との、直接の接点になりました。

今でいう民事訴訟の裁決、ごく簡単な刑事事件の処理などは、
奉行所をわずらわせず、町年寄・名主レベルで済ませたのです。

たとえば、長屋のケンカなどは、まず名主が大家同道で
自宅玄関に呼び出します。
これを「召し連れ訴え」といいます。
落語では、大家が奉行所へ訴え出るシーンがよくありますが、
実際は、まず名主に訴状を出すのが、順序でした。

玄関構えは年寄・名主だけの特権で、一般町民には禁止されていました。

それほど、名主は権威があったわけです。

[演目]

問3

正解:B(桃太郎)

「桃太郎」は前座噺で、こましゃくれた子供が登場します。

昔の子供なら、桃太郎の昔話をしてやれば、素直にすぐ眠ったもの。
「ああ、子供は罪のないもんだ」で済んだのですが……

今の子は生意気で、むかしむかしとは西暦何年か、
あるところって何県? などとアラ探しをし、親を悩ませます。

おやじがグチを言い、早く寝ろと叱っても、せがれは一向に動じません。

桃太郎というのは、菅良斎という人が作ったもので、
父母の恩恵の深さを教えるためだ、と、うんちくを一くさり。

おやじの方が退屈して、いつの間にか高いびき。

「ああ、親なんて罪がないもんだ」

と、オチになります。

五代目古今亭志ん生は、次男・強次(のちの志ん朝)が生まれたとき、
うれしさのあまり、しばらく「桃太郎」ばかりやっていたとか。

昭和13(1938)年3月。長男の清(十代目馬生)以来、十年ぶりの男子でした。

そういえば、若いころの志ん朝の高座には、
どこか、小生意気でキザなところがあったように記憶します。
あまりに、達者すぎたせいでしょうか。

もっとも、「桃太郎」程度の生意気さなど、
今の悪ガキに比べればかわいいもの。
この噺が、昔ほど出なくなっているのは、
現状との乖離が、あまりに大きくなりすぎているためでしょう。

子供の出る噺は、ほかに「真田小僧」「いかけや」「雛鍔」「佐々木政談」
「子別れ」など、数多くあります。

どれも、むしろほほえましいほどのものです。

同じ落語の子供でも、六代目円生が得意にした
「双蝶々」の長吉のグレぶりは相当のもの。
最後は殺人でお召し取りという、悲惨な結末になります。

やはり「桃太郎」レベルが、もっとも平穏無事のようです。

[噺家]

問4

正解:B(ジープにひかれて死んだ)

三代目三遊亭可笑は、1917年9月22日、東京・西多摩郡五日市生まれ。
本名・高水治男。

1937年9月、三代目三遊亭金馬に入門。前座名・金平。
1944年、三代目可笑と改名、二つ目昇進。

斜視で弱視という、不幸な肉体的ハンデのため、最後まで兵役はまぬかれました。

兵隊として「国のお役に立たない」非国民の厄介者という白眼視。
その上、高座でタブーの時局批判をしたため、特高に虐待と辱めを受けます。

このときの屈辱と反発心が、戦後の可笑の高座をつくったとか。
戦中・戦争直後とひたすら読書に励み、雌伏の時を過ごします。

師匠が東宝名人会専属で、弟子は寄席に出られないため、
金馬の配慮で、終戦直後、二代目三遊亭円歌の預かり弟子に。

1947年10月、上野・鈴本の上席で真打昇進。

このころから、「ジャズ落語」と呼ばれる独特の新作で人気を集めます。

小きん(五代目小さん)、痴楽とともに、若手三羽烏と呼ばれました。

自作の「歌笑純情詩集」では、独特の抑揚で、
終戦後の新時代をうたいあげています。

「われ、たらちねの胎内をいでしころは、
長谷川一夫遠くおよばざる眉目秀麗の男の子なりしかど、
世のうつりかわりとともに、わが容貌も一変し、
いまや、往年のスクリーン、フランケンシュタイン第二世の
再現を思わせるごとく変貌せり」

のような冒頭の自虐的ギャグに続いて銀座風景を、

銀座チャラチャラ人通り
赤青みどりとりどりの
きものが風にゆれている
・・・・・・・・

と、詩情たっぷりに朗々とうたい、大ヒットしました。

親交のあった劇作家・大西信行氏は、歌笑の芸風を、

「後にも先にもあんな残忍残酷な笑いを、しかも鬱積させず、爆発させた
落語家の例は、歌笑のほかにない」

と回想しています。

歌笑の落語は、いわば漫談落語ともいうものですが、
身体的コンプレックスをベースにした、独特のブラックユーモアに
エロをちりばめ、敗戦直後の若い客層をつかみました。

その他、豚の夫婦がトンカツに揚げられる悪夢を見て、
目が覚めたらキャベツ畑だったという、ブラックなオチや、
「七つ八つで帯とけて、十九はたちは器量よし…」で始まる
「わが生い立ちの記」などが、一世を風靡。歌笑は売れに売れました。

反面、落語界からは異端として嫌われ、阻害され続けたのです。

1950年5月30日夕刻。
人気の頂点にあった歌笑は、雑誌「夫婦生活」での大宅荘一との対談を終え、
銀座六丁目の路上を歩いていました。

一説には、愛人宅に急ぐため、送りの車を断ったとか。

午後7時45分、横断歩道でない車道を横断しようとし、
疾走して来た進駐軍のジープにはねられ、路上にたたきつけられました。

脳挫傷で即死。享年32歳。

目の不自由な歌笑は、横方向の視界がきかなかったのでしょうが、
米軍は治外法権。むろん犯人はわからずじまいでした。

歌笑の死後、翌年2月までつまっていたスケジュールを、ほとんど痴楽が代演。
「純情詩集」を自分流に変えた「つづり方教室」が当たり、
それ以後、痴楽はスター街道を駆け上がります。

歌笑の生涯は、1966年、フジテレビ系列「おもろい夫婦」としてドラマ化され、
渥美清、中村玉緒が主演しました。

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落語力検定3級 第14回 出題

[寄席]

問1

空襲で灰塵に帰した東京。
そんな中、唯一戦災を免れた寄席がありました。
それは、どこ?

A:上野鈴本演芸場
B:新宿末広亭
C:人形町末広

[背景]

問2

江戸では、町奉行の支配の下、
町年寄、町名主、家持、家主の順に組織づくられていました。
では、これらを総称して、なんと呼んだでしょう?

A:町役
B:町寄
C:町頭

[演目]

問3

次の中で、子供が出る噺は?

A:お直し
B:桃太郎
C:らくだ

[噺家]

問4

「純情歌集」などで人気絶頂だった三遊亭歌笑は、
昭和25年5月30日、突然死んでしまいました。死因は?

A:ふぐに当たって死んだ
B:ジープにひかれて死んだ
C:やくざに刺されて死んだ

※2問以上の正解だと、なかなかのものですね。

                                      正解と解説

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