落語力検定3級 第18回 正解と解説
[寄席]
問1
正解:C(歌奴と三平)
三遊亭歌奴は、今の三遊亭円歌。
林家三平は、今の林家正蔵や林家いっ平のお父さん。
当時は、そんな破天荒な人気だったんですね。
[背景]
問2
正解:B(銀)
金、銀、銅貨とも、単位が異なりました。
主に、商取引に用いられたのは銀貨です。
大工など、職人の手間賃も銀建てで支払われました。
基本単位は「匁(もんめ)」。
匁は、同時に重さの単位でもあり、
古くは、銀貨は重量によって貨幣価値が決められました。
このため、秤量貨幣ともいいます。
海鼠(なまこ)銀または丁銀と呼ばれる、大型で楕円形のものと、
豆板銀という、これも楕円形の小型貨幣がありました。
海鼠銀は、表面がデコボコで、一枚四十匁くらい。
豆板銀にも大小があり、一匁から五匁くらいまででした。
しかし、そのつど量って用いなければならないのは、不便です。
そこで、江戸後期には一朱銀、ニ朱銀、一分銀など、
一枚そのままの価値で通用する、定位貨幣が鋳造されました。
一朱銀は小判(金貨)一両の十六分の一、一分銀は四分の一に、
それぞれ通用しました。
伝統的に上方では、特に銀が圧倒的に多く使用され、
江戸で民間に銀貨が流通しだしたのは、こうした定位銀貨が流通し始めてから。
元禄期あたりまで、経済の中心は上方だったため、
江戸でも、中小規模の商業の決済には銀貨が多く使われる慣習が
長く残っていました。
時代劇によく登場する、俗に「切り餅」と呼ばれるものは、
小判型の和紙に、一分銀百枚、二十五両を包んだもので、
ばらさずにそのまま通用し、商取引にはもっとも多く使われました。
江戸の銀貨鋳造は、慶長17(1612)年から京橋新両替町に設けられた
銀座会所で行われ、寛政12(1800)年に日本橋蠣殻町に移りました。
現在の「銀座」の地名は、古い京橋の会所にちなむものです。
金貨は、基本単位が「両」で、主に武士階級で使用しました。
最大のものが十両大判。これは、贈答用にのみ使われ、一般には流通しません。
一両小判は、商業でも大きな取引には用いられましたが、
これもそうやたらとあるものではなく、
小型で長方形の一分金、二分金、ニ朱金の方が、武家、民間ともに多く流通しました。
いやしい町人風情が、やたら小判など持っていようものなら、
問答無用で盗人とみなされ、御用となっても仕方なかったわけです。
銅貨は銭で、単位は「文(もん)」。
これも元は秤量貨幣で、銭千文=一貫文でした。
下層市民の日常生活には、もっぱらこれが使われました。
古くは永楽銭といい、室町時代に明国から渡来の銅銭が多く流通。
江戸時代に入り、寛永通宝が鋳造され、長く使われました。
明和年間(1764~72)には四文銭と呼ばれる真鍮貨、
天保年間(1830~44)に、大型で百文に通用の天保銭も登場しています。
金・銀・銭の換算率は、金一両=銀五十~六十匁=銭四貫(=四千)文が
一応の公定相場でしたが、その時々で変動したため、必ずしも一定ではありません。
[演目]
問3
正解:B(鏡ヶ池操松影)
詳しくは、「江島屋騒動」をごらんください。
本名題を「鏡ヶ池操松影(かがみがいけ・みさをのまつかげ)」といいます。
明治2(1869)年、三遊亭円朝が創作した怪談噺で、全十五席の長講です。
明治中期には、円朝の高弟・四代目三遊亭円生が得意にしていました。
江戸・深川佐賀町の医者、倉岡元庵の後家のお松が
一人娘のお里を連れ、故郷の下総・大貫村に帰ります。
美人のお里は、名主のせがれ・源太郎に見初められ、めでたく祝言のはこびに。
ところが、大枚をはたいて、江戸の芝・日陰町の江島屋という、
大きな古着屋であつらえた衣装が、とんでもないイカモノ。
糊付けしただけの粗製品だったため、
嫁入りの当日、大雨に濡れて、見るも無残に破れます。
恥をかかされたと名主は激怒、婚礼は破談で、哀れお里は入水自殺。
それが、すべての恐怖と呪いの発端でした……。
原題の「鏡ヶ池」は、古く浅草の浅茅原にあったとされる池で、
入水伝説があったところから、この噺の
お里の自殺に引っ掛けたと思われます。
戦後、五代目古今亭志ん生、五代目古今亭今輔が得意にしました。
今輔はマクラで、円生がこの噺のネタを、実在した江島屋の
元番頭から仕入れたと語っていますが、この情報の出自は不明です。
Aの「後開榛名梅ヶ香(おくれざき・はるのうめがか)」は、
通称「安中草三(あんなかそうざ)」で、明治9(1876)年、
円朝が四年の歳月をかけて創作・発表した長編人情噺。
やむなく人殺しをした主人の身代わりで、忠僕の草三郎が入牢。
牢破りして江戸に出た草三郎が、押し込み強盗に入った呉服屋で、
植木職人となっていた主人と再会するという筋立てです。
Bの「業平文治漂流奇談(なりひらぶんじひょうりゅうきだん)」は、
これも円朝・作の人情噺です。
本所・業平村に住む、正義感の強い美男剣客・波島文治郎の、
さまざまな人助けを描いたものです。
実際には、漂流のくだりは、円朝在世中は構想に止まり、
いずれ続編を書くつもりで「漂流奇談」と題したもの。
円朝没後、高弟の円橘が続編「後の業平文治」を創作しました。
罪科に落とされた文治郎が、島送りの船が難破し漂流。
七年の艱苦の末、江戸に帰った文治郎が、師匠の仇を討つまでを描きますが、
作品として、あまりいい出来ではありません。
A、Bとも、晩年の志ん生が好んで演じました。
[噺家]
問4
正解:C(入船亭扇橋)
入船亭扇橋は、1931年5月29日、東京・青梅生まれ。
本名・橋本光永。
飯能高校卒業後、1957年12月、三代目桂三木助に入門。前座名・木久八。
1958年5月1日、横浜・相鉄演芸場で「寿限無」を演じ、初高座。
1961年1月、三木助没後、同年5月、五代目柳家小さん門に移り二つ目昇進。
柳家さん八と改名。
1970年3月、真打昇進。九代目入船亭船橋を襲名。
1982年12月、 文化庁芸術祭最優秀賞
1983年、芸術選奨文部大臣新人賞
飄逸な芸風で、多くのファンを持つ扇橋。
落語通をうならせるその渋い芸風は、枯淡の俳味に通じるでしょう。
中学時代から句作に才能を示した扇橋は、今や日本有数の俳人でもあります。
その原点は、1968年1月、柳家さん八時代に自ら主催した「東京やなぎ句会」。
同会は、落語家仲間にとどまらず、多士済々の文化人が集い、
オトナの文化サロンとして注目されています。
常連メンバー(俳号)は入船亭扇橋(光石)、永 六輔(六丁目)、大西信行(貘十)、
小沢昭一(変哲)、永井啓夫(余沙)、柳家小三治(土茶)、矢野誠一(徳三郎)など
錚々たる顔ぶれ。ほかに加藤武、桂米朝、故人では江國滋、三田純市、神吉拓郎。
メンバーの変哲こと小沢昭一は、2005年6月、新宿末広亭上席に特別出演した際、
「やなぎ句会」の扇橋について、
「宗匠といったって、題出すだけなんですよ。(笑)蔭では題出しと
言ってるんですけどね。(笑)何言われても温厚な方です」
と、述べています。
「やなぎ句会」は、1999年3月、メンバーの共著で、
「友あり駄句あり三十年―恥多き男づきあい春重ね」
を、日経新聞社から上梓。
草創期からの足取りや、同人間の交流など、会の全貌を紹介しています。
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